今回は、
Tおばあさんから聞いたヤップ島の昔話。
今年89歳になる
Tおばあさん(ご本人は数えで90歳と言っている)だが、もう長いこと語ることもなかった話なので登場人物の名前も忘れたそうで、その上、ヤップの話を日本語でわたしに聞かせ、それをわたしが文章化しているのだから、ヤップらしい微妙なニュアンスが伝わりにくいかもしれない。だからこれは、
Tおばあさん版ヤップ昔話のひとつのあらすじを、suyapの記録として日本語で書き取ったもの-という位置づけで読んでください。(記事の無断転載を固くお断りします)。
話の中に、陰膳なんて日本にもあった風習が出てきてびっくりするけど、だからといって、ヤップと日本はつながりがあると短絡的に決めつけることはできない。それぞれを独立した風俗・文化としてとらえるなかで、
なぜこのような似通った風習があったのだろう?という疑問をまず持って、そこからさかのぼったほうが、双方の違いや類似点をよく見ることができるだろう。
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むかしむかし、ガギル(ヤップ島東部)のリケン村やワニヤン村の男たちが、カヌーでフィリピン(
Maniileq)まで行って貝貨(
Yaer)を取って来ようと相談していました。それを聞いたマアプのアミン村(ヤップ島北西部)の男が、自分もこのカヌーの旅にぜひ同行させて欲しいと頼みました。
旅の一員に加えてもらえることになったアミンの男は、たくさんのダル芋(ヤムイモの一種、
Dael)を持ってカヌーに乗り込みました。航海がはじまると、ガギルの男たちの食べ物はすぐに尽きてしまいましたが、アミンの男が持ってきた
ダル芋は、まだたくさん残っておりました。それに、たいへん長持ちして味もかわりませんし、焼いてもすぐに火が通るので、長旅にはたいへん便利でした。アミンの男は、自分のダル芋を少しずつみんなで分けて食べていましたが、ガギルの男たちは、アミンの男のダル芋をもっともっと欲しいと思っていました。
食料がますます乏しくなってきたころ、ついに島影が見えました。どうやらフィリピンの一番東端にある島々のようです。浅瀬でカヌーを進めるためには竹ざおが必要だということになり、ガギルの男たちはアミンの男に、上陸して竹ざおを取って来てくれないかと頼みました。人の良いアミンの男は快く了承しました。
ところが、アミンの男が竹を抱えて海岸に戻ってみると、カヌーははるか沖で帆を張って進んでいました。ガギルの男たちは、アミンの男を置き去りにしてしまったのです。そこは島が細く突き出した先端(
M'uuth)のようなところで、周囲にまったく人影はありませんでした。それから男は、腹が減ればコプラ(ココヤシの完熟した実)を拾って食べ、渇けばココヤシの木に登って若い実を取って喉を潤し、夜は野豚や犬の襲来を逃れて木の上で寝て、延々と海岸を歩き続けました。
そうして3ヶ月が経ったころ、誰かが仕掛けた野豚獲りのワナ(
Wup)を見つけて人里の近いことを喜ぶうちに、うっかり自分がそのワナにかかってしまいました。野豚用のワナですから、強く足に食いこんで逃れられません。血を流しながら長いことウンウンと苦しんでいると、ワナの仕掛け人がやってきました。
もちろんお互いの言葉は通じませんでしたが、親切な仕掛け人は、この男を自分の家に連れて帰り、丁寧に介抱してやりました。長い間の飢えと足の傷がだんだんと癒やしながら、ヤップから来た男は、少しずつこの地の言葉を覚えていきました。そうして、自分がこの地に置き去りにされたことや、最終目的地である貝貨の産地、キワンというところに行って仲間のカヌーを捜したいということをなんとか伝えると、まわりの人たちはたいへん同情して、助けてくれることになりました。
それにしてもキワンはそこからいくつもの島を隔てた遠いところにあったので、この島から隣の島へ、そこからまた隣の島へと、親戚縁者のネットワークを通して、島づたいにこの男を送り届けることになりました。
もちろん、それには長い時間がかかりました。ですから、目指すキワンにたどり着く頃には、このヤップの男もフィリピンの言葉を流暢に話すようになっていました。またフィリピンはすでにスペイン統治の時代でしたから、この男もまわりの人々と同じように、長いズボンとシャツという服装を身につけておりました。
キワンに着いてみると、この男を置き去りにしたガギルの男たちは、すでに船出したあとでした。思案にくれながら海岸を歩いていると、なつかしいヤップ式のカヌーに似た船を修理している男をがおりました。やがて何とはなしに話をするようになり、なんとはなしにカヌーの修理を手伝うようにもなりました。それでも、お互いの過去や出身地について話すことはまったくありませんでした。このカヌーを直している男も、フィリピンの言葉を流暢にしゃべり、洋装をしておりました。
ある暑い日のこと、カヌー修理の作業を終えたあと、ふたりで一緒に水浴びに行こうということになりました。そして海岸でふたり同時にズボンを脱ぎ始めたところ、それぞれの足から見事なカツオ(
Ngool))の刺青が現れたのです!(※) それを見たふたりの口から同時に出た言葉は:
Gabea u Waqab?
ガベ・ウ・ワアブ?
(あなたはヤップの人ですか?)
驚きのあとは懐かしいヤップの言葉で、お互いの身の上話になりました。この男はギルマン(ヤップ島南部地域)はタワイ村の出身で、もうずいぶん昔、ひとりでカヌーを操ってここまでやってきたのだそうです。この地の暮らしが気に入って過ごすうち、なんとなく帰りそびれて長い年月が経ってしまいました。そしてときどき、古くなって痛んだカヌーを修理しながら故郷を思い出していたのだそうです。
(※写真の刺青のデザインはカツオではありません)
一方、アミンの男の身の上話を聞いたタワイの男は、ガギルの男たちにどうしようもなく腹がたってきました。そして、この哀れなアミンの男を、なんとしてでも年老いた両親の元に返してやらなければ、という気持がだんだん強くなり、
このカヌーを直して、一緒にヤップに帰ろう!と言ったのです。
ヤップに帰るという目標ができたふたりは、カヌーの修理に精を出すかたわら、貝貨にする貝を採りに海に潜ったりと忙しく立ち働きました。ある日、タワイの男がたいへん大きな貝を海中から取ってきましたが、二枚貝のそれぞれを分け合うことにしました。ヤップに持ち帰ると、これらはたいへん価値のあるものとなるはずでした。
そうして、ある西風の吹く日、長い間お世話になったフィリピンの人たちに丁寧な別れを告げて、ついにふたりはカヌーの帆を上げました。風を受けた旅は順調で、数日後のまだ明るいうちにヤップ島の西側に到着することができました。それから日がとっぷり暮れるのを待って、ふたりはカヌーをミル・チャネルからリーフの内に進めました。
アミン村はミル・チャネルを入るとすぐなのですが、真っ暗なマングローブの際にカヌーをとめると、タワイ村の男はアミン村の男に、じぶんが家の様子を見て戻ってくるまでカヌーに隠れて待っているように言いました。それから、しんと寝静まった村の道をたどってアミン村の男の両親の家に近づくと、タワイ村の男は静かに家の中に話しかけました。あなたがたの息子さんが、いま帰ってきましたと。
それを聞いた母親は、最初、どこの誰がそんな悪い冗談を言うかと怒った声を上げましたが、じきに、父親とともに家の中から飛び出てきました。タワイ村の男の説明を聞いた父親は、息子が船出していった日からこの日まで、母親は一日も欠かさず息子のために
食事を用意していたこと、そして、自分は息子が生まれた日から7年の間、一切魚を食べなかったこと(※)などを話したそうです。
※
Tおばあさんによると、「魚を食べない」というのは比喩であって、意味は「女にさわらない」ということなのだそうだ。むかしのヤップでは、子供が生まれて1年半とか、それくらいは夫婦でもヤラナイ(笑)習慣があったようだが、それを7年も続けるとは、長い禁欲生活をしたから、丈夫な息子に育つという意味もあったのかも?
その後カヌーに戻ったタワイ村の男は、アミン村の男を下ろすとカヌーを岸から離し、南のタワイ村に向けて船出して行きました。アミン村の男は両親と再会を果たし、大きな貝貨を父親に献上して長年の不在を詫びたあと、その日も母親が用意しておいた食事を頂きました。この男を置き去りにしてフィリピンから帰ってきたガギルの男たちから息子は死んだと告げられても、両親は、きっと帰ってくると信じて疑わなかったと言いました。
それからしばらく、男はひっそりと隠れて暮らしていましたが、だんだんとその姿が村人の目に止まるようになり、この男の生還は、やがて人々に知られるようになりました。この男を置き去りにしたガギルの男たちにもそれは伝わり、と同時に、彼らの酷い仕打ちも人々に知れわたったので、たいへん恥ずかしい思いをしておりましたとさ。
(後記)
ヤップの村々の関係やヤップ人のメンタリティがわからないと、このストーリーのツボを十分理解できないかもしれません。ま、それで良いのだと思いますけど。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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