めっちゃ忙しかった10日間が終わり、きょうは何も考えずに家で休養することにして、誰にも会わず→の
センジュイソギンチャクのようになって過ごした。
それで、ずっと読んでいなかったニュースやブログを気の向くままに読みにいったり、これまた久しぶりのレンタルDVDで
The Queenなる2年前の映画を見たりして1日が過ぎたのだけど、なんだか心の底にオリのようなものが溜まってきて、やーな感じなのである。
わたしがヤップで潮びたりの日々の間に、ニホンでは元厚生事務次官やその家族が殺傷されるという事件が起きて、その自称「犯人」が自首したという。これって、どっかで見た聞いたのと同じ流れじゃないか?
石井こうき(石井紘基)事件と元厚生次官ら連続殺傷事件の経過があまりに似過ぎていないか?
http://kito.cocolog-nifty.com/topnews/2008/11/post-ce71.html
2002年10月に暗殺された石井こうき衆議院議員のときも今回も、永田町や霞ヶ関のどこかで青ざめ震え上がっている人たちがいることだろう。「口封じ」の目的は達せられた。この国は、70年前にもこういう流れを経験したのではなかったか?
もうひとつ心が沈む思いなのは、植草さん冤罪事件からのおつき合いでよく読みにいっていたブログが、
「田母神論文」についてファナティックとしか思えないような賛同を表明していることだ。まったく幼稚としか言い様のない歴史認識と「国家」論であるのだが、こういうものを単純に信じ、それに陶酔できるナイーブな人々が増えているのかと思うと憂鬱だ。同じブログで応援している
城内実氏にも、そういう臭いがする。
そういう人々の書いたものを読むたび、わたしの脳内では
身すつるほどの祖国はありやという寺山修司の短歌の一節がこだまする。
マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身すつるほどの祖国はありや(「祖国喪失」)
1935年生まれの戦中派であった寺山修司にとって、この歌は「身すつるほどの祖国」を希求するがゆえの逆説的表現だったのかもしれないが、「祖国」の内容を吟味もせずコトバに陶酔する「愛国者」よりも、その思考はよほど真摯で深いと思う。
ただし、わたしの脳内でこの一節が繰り返されるとき、そこではいかなる「祖国」も希求されてはいない。
「
国」「
国家」「
祖国」を語るとき、そこには同時に
戦い、
競争、
排除の思想がまとわりつく。
わが国の〇〇は世界第2位だ...
わが国への脅威には武力で応ずる...
わが国民生活を守るため、△△の入国を制限する...
それでは、「わが国」と呼びたい場所が複数あり、それらが相対立していたら、どうすれば良いのか?自分の属する「国」と、愛する人の属する「国」が相対立していたら、どうするか?そもそも、どうしてそんなに自分を「国」に縛り付けたいのか?
「国」という概念はきわめて政治的なものだと思っている。そして政治の主体が「個人」であるなら、その属する「国」を選ぶのも「個人」にまかされて良いはずだ(ほんとうの民主主義なら)。いや、「国」というよりも「生活共同体」としたほうがまだスッキリわかりやすい。そして、どの「共同体」にも属さない流浪の「個人」も存在できて、共同体同士がゆるくつながった社会、そんなんで、本来ニンゲンの生活は平和にやっていけるものだと思う。誰かが富を独り占めしようとしない限り。
日本でいうと村・町・市単位くらいの規模で、そこに住む「個人」同士が共同体「政府」を経営し、それらが緩くつながって広範囲の「連合政府」を構成し、それらがまた有機的な連合をつくる。そして、同じ共同体で一生を過ごすものもいれば、あちこちの共同体をわたり歩く漂泊者(流れ者)もおり、そんないろんなニンゲンの生き方が共存できる社会、そんな世界を希求するわたしには、祖国など必要ない。
最後に、反米嫌日戦線「狼」さんとこに山口瞳先生のエッセーが出ていたので、「祖国な方」に捧げたい。:
日本という国は亡びてしまっていいと思っている
http://anarchist.seesaa.net/article/30769653.html
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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