先だっての日曜日の午後、店のあるマリーナの駐車場も、その前の路上もYCAの交差点のほうまで、車で埋め尽くされた。その日のお昼からずっと、ESA Bay View Hotelのレストランで友人とおしゃべりしていたのだけど、マリーナのほうから大音響のミュージックや歓声が聞こえてくるので、心配になって帰ってきたら、この有様だった。
いったい何事かと、近くのコミュニティ・センターに行ってみると、うわぁ~、人だらけだ~!午前中に店を離れたころには人っ子ひとりいなかった場所が、すごいことになっていた。あふれた若い連中は(いつものことだけど)、うちの桟橋の前に生えている大きな
ゴムの木や
テリハボクの木陰まで占拠していた。
人だかりの中から知った顔を見つけて、コミュニティ・センターで何やってるの?と聞くと、
もうすぐマニュエルが重量挙げをやるんだという。
えっ、それ本当?それならカメラとってこなきゃ...と、車に残したバスケットに入れてあるデジカメを取りにいくわたし。
マニュエルとは、重量挙げ(軽量級というのかな...ランクはよく知らないが)でアテネ・オリンピック堂々10位入賞の、マニュエル・ミンギニフェル(Manuel Minginifel)君のことだ。彼の亡くなったお父さんに、わたしはたいへんお世話になったし、うちのスタッフ、チョメの親戚でもある。そうこうしているうちに、怒涛のような拍手に迎えられて、マニュエル君が登場した。
マニュエル君のお母さんは彼が10代の頃に亡くなり、小柄なヤップ人の中でも超小柄なひとり息子のマニュエル君をなんとか強い男に育てたいと思ったお父さんは、彼を連れて島外の重量挙げのコーチを訪ね歩き、その指導を仰いだ。その甲斐あって彼の腕はめきめき上がり、ミクロネシア内の競技会で名が知られるようになった頃、ある日、ひとりで魚とりに出たお父さんは、そのまま帰って来なかった(後日、無人のボートだけが見つかった)。
そんな悲しみを乗り越えてマニュエル君は訓練に励み、ミクロネシア連邦が2000年のシドニー・オリンピックに初めて招待出場することになると、彼も重量挙げの選手として選ばれ、そのときから国の援助が多少もらえるようになり、1年の大半をフィジーのコーチの元でトレーニングを受けるようになった。
さあ、重量挙げのデモンストレーションの始まり、始まり!まずはウォーミングアップということで、100キロを軽々持ち上げてみせた。ウォ~という歓声と大拍手!
シドニー・オリンピックの入場行進では旗手もつとめ、大活躍が期待されたにもかかわらず、競技前の練習中に足首を痛めて競技出場を断念するという、選手としては大変つらい経験をした
(そのときは、ヤップに帰ってきても、ちょっと荒れてたね...)。
それでもしっかり立ち直って、アテネ・オリンピックでは堂々10位入賞!といっても、大会中は11位だったのだけど、上位入賞者がドーピングで失格となって、彼の順位も繰上げとなったのだったが。
コミュニティ・センターの会場では、110キロ、115キロをクリアしたマニュエル君が、いよいよ120キロに挑戦する段になった。
たくさんの人が入った会場が、彼の動きで一瞬シーンと静まり、
みんな、うっと固唾を飲んで...
いえ~い、やった、やった~!
再び割れるような拍手と歓声に包まれた会場で、MCが叫ぶ、
さあ、われらのオリンピック選手、われらのマニュエルと握手をしたりサインをもらったりしたい人は、どんどん並んで並んで!みんなで彼の北京への旅立ちを祝福しようじゃないか!さあ出てきて並んだ並んだ、そして順番を待ってる間に、側に置いてある箱にカンパも忘れないでね!
そして、ヤップが誇るオリンピック選手と握手したり、ハグしたり、写真を撮らせてもらったりしたい人々の行列がず~っと続いたのだった。もちろん、わたしもまた急いで車まで財布を取りに行って、行列に並びました。
すでに30歳を越えた彼は、自分でも北京が最後のオリンピックになると言っている。その後はコーチとして、ミクロネシアの後進の育成に努めたいそうだ。すごく久しぶりに近くで見た彼は、すっかり落ち着いた大人のおじさんになっていた。マニュエル君、あまり無理しないでベストを尽くしてね!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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