モトグショウ(写真左)は、ウォレアイ環礁の東礁湖(ラグーン)への入り口にある、砂州で出来た小さな島だ。お天気さえ良ければ、東環礁のどの島からでも眺めることができる。
戦時中、将兵を乗せた船や潜水艦は、みなこの島と
ラウル島の間を抜けて静かな礁湖に入ってきた。
メレヨンという架空の名前だけを告げられて、太平洋のどこら辺にいるのかも知らないままに置き去られ、だんだん飢えて衰弱していく兵士たちは、毎日この島を眺めては、来るあてもない補給船を待ち望んでいたのかもしれない。潮の高さや波の状態など、よほどの好条件がそろわないと上陸は難しいが、環礁内の他の島々に慰霊調査で渡るときには、必ずこの島にもボートを寄せる。
フララップ島は東礁湖の奥まったところにあり、礁湖に面した側には北東の貿易風の影響をまったく受けない静かで美しい砂浜が続いている。この島に5つある集落はすべてこの海岸に面しており、ココヤシの林の陰にはカヌー小屋が見え隠れする。そんな平和な風景の中に、今でもなお日本軍が残した構築物や武器の残骸を、いたるところで見つけることができる。



これは
フララップ島のセンターとでも言うべき教会前広場の目先の浜にある、半ば砂に埋もれたコンクリート製の壕。写真右の小窓に見える部分は出入り口だった。この先の海中には桟橋の基礎だったコンクリートの塊が埋もれている。


これらは島のメインストリート(自動車は数台しかないので舗装道路ではないが)の脇に転がる正体不明の部品たち。長い年月の間に使えそうなパーツだけ持っていかれた後のような感じだ。道路わきといっても島では必ず誰かの土地だから、今ではこれらの所有者はその土地のオーナーということになる。


これらは民家の敷地の中で撮らせてもらった。元はちゃんとした建物だったのであろう階段(写真左)は便利な腰かけ兼物置台になっているし、庭先に転がるギアやドラムなどは、いつか何かに使えるぞって感じで置いてある。
戦争が終わって強制疎開先の
フラリス島から戻ってきた島の人たちは、薄く土をかぶせただけで島中に累々と埋もれる屍が発する猛烈な臭気と黒山のようなハエ、爆撃でボコボコになった畑や居住地、丸坊主になったココヤシの木々を見て呆然としたことであろう。おまけに食用になりそうなものは悉く日本の兵士によって食べつくされていた。彼らは島の人が食べないトカゲやネズミや小さなヤドカリまでも食べつくしていた(それ以来いまだにウォレアイには
オオトカゲがいない)。

しかし、そんな状況でも島の人たちは生きていかねばならなかった。幸い日本軍が植えたサツマイモやカボチャが何とか収穫できたし、もっとラッキーなことには、ある日ある壕の中を調べていた人が「食料の山」を当てた!あれほど飢えていた日本軍なのに、コメやミソや缶詰などの食料がいっぱい詰まった壕がひとつ残っていたのだそうだ。それが海軍のものか陸軍のものか、なぜ残されたのか真相はわからないが、ともかく島の人たちはそれで当分しのぐことができて感謝したという。
(写真は高校の敷地に残る壕)
1945年の敗戦から1966年まで、ミクロネシア地域への日本人の渡航は禁じられていた。それが解かれると同時に、3人の元戦友(元将校ひとりと元下士官ふたり)が戦後初めてウォレアイにやってきて、最初の遺骨収集を行った。現在は民間人だけで遺骨を持ち帰ることはできなくなったが、かわりに数年に一度
厚生労働省から今回のような受領調査団が派遣されており、今後も新たな遺骨が発見される限り続けられる方針のようだ。今回は、
①できれば現場を維持した形で ②(土地の利用その他で)それが無理ならできるだけ完全に発掘して個別に保管を という要請が地元へ(口頭で)なされた。
今まで現地でスムーズに受領調査事業が行われた背景には、遺族・戦友会(全国メレヨン会)や個人の、地元との長年にわたる交流があったからだ。地元にも日本語教育を受け戦争を経験した世代が多く、彼らのリーダーシップで遺骨の収集や保管が行われてきた。

ところが前回(2004年)まで元気だったそういう世代がこの3年の間に相次いで亡くなり、彼らと親しかった元戦友や遺族の方にとっては残念なことに、今回の旅はその墓参も兼ねることになってしまった。一方地元のほうでは、これまでのメレヨン会や個人からの援助や寄付にたいして(学校施設やコミュニティに相当な寄付をされている)、滞在中の1日、ウォレアイ環礁中の小学校と高校の生徒が集まって感謝のイベントをしてくれた(あいにく肝心の元戦友の方は体調を崩して欠席されたのだが)。
しかし熱心に地元との関係を築いてこられた元戦友(どなたも80代後半である)や遺族の方もどんどん高齢になっておられるし、彼らが(お互いに語彙や理解の不足があったとはいえ)直接日本語で話せる相手もいなくなってしまった。地元のほうでも、ある程度もの心がついてから戦争を体験した70歳以上の世代(彼らが学齢に達したあたりで戦争が始まったので日本語はほとんど話せない)も残り少ない。
ウォレアイ環礁を含む西カロリン諸島では、太平洋戦争のあとでキリスト教(主にカソリック)化が一気に進み、それまで水葬にされた死者は、教会の指導ですべて土葬に変わった(狭い島なのに将来はどうするつもりだろう)。もともとミクロネシア人は死者が悪霊となって帰ってくることを恐れ、今でも死んだ人の名を口にすることは大きなタブーである。それに加えてキリスト教では墓を暴く行為をタブーとする(?)。もし自分の土地で遺骨が見つかったら、別の場所に丁重に埋めなおして(念のために)神父にも祈祷してもらおう-と考える人がいてもおかしくない。そういう人は日本人が遺骨を捜しにきても、自分の土地にあるものは報告したくないだろう。
今までは戦争と当時の日本人を直接知る世代の強力なリーダーシップによって、(完璧とはいえないにしても)それなりに遺骨収集や保管に協力してもらえていたが、これからの世代にそれを引き継いでいってもらうには、
①戦争中にウォレアイであったことを地元の若い世代に伝える努力
②学校やコミュニティへの金銭・物品的なギフト(多すぎず、現地事情を考えて公正に渡るように配慮)
などの提供を今まで以上に続けていく必要があると思うのだけど、はたして今後どうなっていくのだろうか。
※今回ウォレアイ環礁中の学校が集まってイベントをやってくれたのは、これから進むべき方向性を暗示していると思う。今までは日本語世代の島の有力者を通して間接的なつながりしかなかった島の人々(とくに若い世代)と、平和教育とそれへのささやかな援助をとおして、新しいつながりが出来て欲しいと願っている。それにはもちろん日本の若い世代も参加して欲しい。
ウォレアイで土や海に還った人々の遺骨を日本に連れ帰る意味についての私考:
どんな状況であれ、葬式や遺体の処理(墓を含めて)には、死者よりも時代の風潮に左右された生き残った者の意志が多く働く。死んだ本人としては(あの世があるとして)既に脱ぎ捨てた衣服の処理に拘泥はないのではないか。しかし戦地に残された遺骨に関しては、遺族や元戦友たちに「ひとりでも多くの兵士を故国に」という者がいる限り、海外の場合は現地にそれを受け入れてもらえる限り、彼らをあの地で死に追いやった国家の責任として、日本政府は今後も遺骨収集受領事業を続ける責任があると考える。
日本の選挙権を持つものとしては、戦争で非業の死を遂げた者たちを
国籍に関係なく国家として忘れない・忘れさせないというスタンスで政策を行なうような政府と政治家を選ぶ責任があると考える。
戦争の悲惨さを
国家として忘れない・忘れさせないという政策とは、
政治家がヤスクニに参ったり、日本国籍でない人をヤスクニに合祀したり、戦死者を英雄化する教科書を作ったり、はたまた「国防」戦争を美化する教育をしたり
することでは、断じてない!
戦争の悲惨さを
国家として忘れない・忘れさせないという政策とは、例えば:
①学校教育の歴史の授業は現代史からさかのぼって教え、国家としてではなく国民の視点からあらゆる戦争の残虐さを生徒に考えさせる。
②日本が侵略した世界中の地に政府出費ですべての戦没者を国籍を問わず慰霊する碑を建立・維持管理し、定期的に平和使節団を派遣する。(民間によって建てられた慰霊碑が既にある地域では、その維持管理を日本政府に移管すれば余分な出費をせずにすむ)
③現行の日本国憲法を厳守し、とくにその第9条については限りなくその理想の実現化に努める努力を表明する。(参考)
9条改憲論者というのは、
わたしは美しくなる。だから甘いものを食べることを放棄する。
という人にむかって、「あなたは肥満しており甘いものが大好きだ。美しくなり甘いものを放棄するというのは現実的ではない」といちゃもんをつけ、
わたしは肥満している。だから甘いものは適度に摂取する。
とせよ、と言うようなもので、高邁な理想をみずから放棄した思考停止の怠け者の態度である。
それでもなお日本が軍隊(+核兵器)を持たなければ安心できないという人へ:
★人類が日本列島に人が住みついて以来、なぜか、この列島に侵略したものは自らのアイデンティティを先着土着民族の中に埋没させてきた。現在の日本人とは、そういう異民族の流入と混血を繰り返した結果である。地勢上からも人口上からも、日本の国土に地上軍を派遣して侵略しようというような酔狂(クレイジー)な国家は永遠にない。
★日本が侵略された歴史の主だったものは、古くは白江村の戦いに敗れたときと、1945年の敗戦から今日に至るまでである(あるいは明治維新以来ともいえるかも)。教育の原点を考える:明治天皇(2)
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/
2005/09/post_5c5b.html
ヒロさん日記:「北朝」の明治天皇が、「南朝」を復権させたのはなぜか
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/
story/?story_id=1392415
★有史以来、日本が列島を越えて半島や大陸に侵略したのは、7世紀の唐=新羅との戦い、16世紀末豊臣秀吉の朝鮮出兵、それから明治以降の対朝鮮、中国、東南アジア、太平洋諸島侵略であり、それらは甚大な犠牲を出してことごとく失敗に終わった。
★それでも核兵器でやられたらどうするという人へ:おそらく「仮想敵国」に北朝鮮と中国を想定しているのだろうが、現北朝鮮政府はアベシンゾーをはじめとする日本の売国保守政治家どもとアメリカ政府とは麻薬や偽札を通して大の仲良しという現実を直視して考えること-北朝鮮脅威論は、日本の武器産業に押された現日本政府と、セコハン武器を売りつけて代理戦争をさせて儲けたいアメリカ政府によって意図的に作られたもの。
中国については、外交に長けた中国政府は日本を核攻撃するメリットは何もない(笑)ことをよく認識しているうえに、日本はたった2発の水爆で全滅するが中国には5発くらっても大丈夫な広大な国土と人口がある-というわけで、核抑止論が日本のような小さな国では全く有効でないことは、ちょっと考えればすぐわかるはず。
これから
平和外交日本を築いていくためには、国民ひとりひとりが情報をちゃんと集めて自分の頭で処理し、しっかりと日本の歴史を考え直す努力をするようにならなきゃ、ということデスネ。
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太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)
http://suyap.exblog.jp/4134847/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその壱
http://suyap.exblog.jp/6032304/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその弐
http://suyap.exblog.jp/6036178/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその参
http://suyap.exblog.jp/6046799/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその四
http://suyap.exblog.jp/6048533/
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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