左はウォレアイ環礁
フララップ島から
パリアウ島を望んだところで、
フララップ島の東端に位置する。
フララップと
パリアウの間は、大きな台風のたびに、砂州でつながったり途切れたりを繰り返している。3年前に来たときには途切れていたが、今回行ってみたら再びつながっていた。
パリアウ島の向かって左手のほうには海軍・高角砲隊の陣地があったそうだ。
この美しい海岸のすぐ側に、かつては海軍・警備隊の
フララップ駐屯地があり、サンゴ石とセメントでできた大きな慰霊碑が建っている。ここへは台風時には外海の大波が直で押し寄せてくるので、碑はかなり痛んでいた。
フララップというのは「大きな島」という意味で、そのために日本海軍はここに滑走路をつくることにして、司令部や警備隊とともに工作隊と数百人にものぼる日本や朝鮮半島からの労働要員(軍属)を送り込んだ。一方陸軍もここに独立混成第50旅団の司令部を置き、砲兵隊本部、戦車隊、工兵隊、通信隊のほか、独立歩兵第334大隊を含めて1100人以上の将兵が駐屯していた。ちなみにウォレアイ環礁全体の現在の人口は977人(2000年国勢調査)である。
フララップ島は昔から環礁の中心となる島で、現在は滑走路のほかに州立高校やクリニック、小さな火力発電施設もある。そのため
ラウルや
パリアウから戦後移住した人々に加えて、近隣の環礁や島々から、高校進学のために寄宿している生徒や先生、発電施設の従業員、あるいはバケーション組(笑)もいて、人口はかなり増えており、島の人はみんな「過密状態だ」と言っている(といってもまだ600人前後だろう)。そんな面積しかない島に、食料も持たずに数千人の日本兵が投げ込まれたということを想像しただけでも、どんなに悲惨な事態だったか想像できるだろう。
この島での遺骨の調査と収集作業は、民家が建っている部分を除いて早い時期にほぼ終わったと思われており、今回の調査が入る前に新たに2ヶ所で「見つかった」という報告には、何度もこの島を訪れている遺族や戦友の方から「そんなはずはない」と疑問の声があがった。
しかし見つかった場所のひとつに案内されて行ってみると、それは紛れもなく新たな遺骨だった。厚生労働省としては今回は「受領と調査」という目的だったので、新たに見つかったなら遺骨はできるだけ現場保存しておいて欲しかったのだが、
島の人が遺骨を見つけて収集>
遺族・戦友会に連絡>
厚労省に受領事業の依頼というこれまでのパターンを踏襲して、ほとんどの遺骨はすでに掘り出されていた。しかしここの遺骨は掘り出されて間がない状態で、左上のようにヤシの葉で編んでバナナの葉を敷いた篭に入れられてきた。
それが見つかったという場所を掘り起こすと、小さな骨のかけらがまだたくさん出てきた。発見者の若い男性に見つけたときの状況を聞いてみると、どうも歯切れが良くない。深く詮索されるのを恐れてあまり答えたくないという風があった。それで、「見つけてくれてほんとうに感謝している。どんな事でも絶対にあなたを責めたりしないから、どこにどんな風に埋まっていたか教えてくれないか」というように尋ねて、それでも細切れでしかわからなかったけれど、この男性(もしくは家族の誰か)がゴミを埋める穴を掘っていて、10年以上も前に見つけたらしいことがわかった。そのときにあらかたの遺骨を集めて布にくるみ、ゴミの穴をよけて傍に埋めた。それからも2度ほど遺骨収集事業が行われていたのに、今回までこの遺骨のことが報告されることはなかった。
この場所は海軍警備隊がいた場所にも近いので、「海軍さんか軍属さんかもしれないね」とは、元戦友の方の感想だった。最後に力尽きてゴロンと自分で掘った穴に転がり込んだ戦争末期の死者だろうということだ。
もう一方の「新発見」の遺骨も事情は複雑だった。これもかなり前に、海岸近くにカヌー小屋を建てようとしたとき、鉄兜や銃と一緒に見つかったのだという。それがなぜか、鉄兜の存在だけは日本語を話せる世代だった当時の島の有力者によって元戦友に伝えられていた。発見されたとき丁寧に掘り集められた遺骨は新たな場所に埋葬され、十字架を立ててカソリックの神父を呼んでお祈りしてもらったそうだ。銃はしばらくカヌー小屋に飾ってあったが、現在はある人が持ち去ったまま行方不明になっているという。
2004年の収集事業までは、ウォレアイ環礁のリーダーたちにも流暢な日本語を話す世代が何人もいて、遺族や戦友の方々と直で会話ができていた。しかし日本人側としては互いに気持が通じあっていると思えても、やはり島側の都合によって日本人には知らせてくれないこともあったようだ。深い信頼を得ていると感じても、日本人はやはり旧宗主国側の人間で、被支配者側の島民感情の細部までを理解することは難しい。日本語で意志の疎通ができているようでも、そこには語彙やニュアンスの限界もあったから、島の習慣から人々の感じ方や価値観、戦後世代の考え方までを推し量ることは無理であった。
ここの遺骨も、せっかくキリスト教式に供養している墓を暴くことに対して、そうとうの抵抗があったようだった。それを押し切って掘り返してくれた者たちにしても、決して快い作業ではなかったであろう。3年の間に日本語世代のリーダーたちがほぼ全員他界してしまったため、残された世代には「ここまでは日本人に黙っておいたほうが無難」という微妙なバランス感覚がわからなくなったのかもしれない。これを埋めるには、相手の事情をちゃんとわきまえた深いコミュニケーションを続けていくしかないだろう。
集められた遺骨の中には、長径6センチ短径4センチくらいの鏡であったろうと思えるものがあった(写真左)。
スリアップで老人から提供された金歯も含め、すべての遺骨はトタンを敷いて薪を組んだやぐらの上に白布をかけて並べられていく。早い時期には発掘したままの遺骨を持ち帰るということもされていたようだが、現在は検疫上の配慮から必ず現地で「焼骨」することになっている。
今回は量が多かったので、やぐらは2組半にも及んだ。達筆な元戦友の手で、「戦友よ安らかに眠れ」と書かれた日の丸で覆われた遺骨は、灯油を降りかけた薪に点火されると、折からの強い北東風のおかげもあって勢いよく火に包まれた。手伝いの島の人々とともに、じっとそれを見つめる。やがて薪が燃え尽き火が消えると、熱が下がるのも待ちかねて灰の中から遺骨を拾う。形のある遺骨は日本に持ち帰られ、遺灰は慰霊塔の下に収納される。
最終日、
フララップ島の教会前にある慰霊塔のまわりは紫白の横断幕、日の丸や海軍旗、献花などで飾られ、厚生労働省によってあらかじめ用意された式次第にのっとって慰霊祭が行われた。
このブログを熱心に読んでくれている人なら、日の丸がバーンと登場するこういうセッティングにわたしがいることに?と思われるかもしれないが、執り行っている主催者側(厚労省)の方も淡々とやってくださったので耐えられた(笑)。それに80代後半の超高齢の元戦友や70代後半の遺族の方々には、これは大切なセットアップなのだろうし。もちろん日の丸に敬礼とか、キミガヨ斉唱とかというような
昨今の日本の儀式で流行まくっている野暮なメニューは全くないから、純粋に死者を弔うことができる。
この日はウィークデーだったので子供たちは学校に行っており大人の集まりも少なかったが、それでもちらほらと島の人たちが集まってきた。厚生労働省団長、遺族代表、戦友代表、島民代表の献花が終わると、島の参列者で希望者には点火した線香が配られて、それぞれが順番にお参りしてもらう。カソリックの埋葬時の最後の別れのときのように、小さな花を摘んで慰霊碑に供えている人もいて、みんな神妙な顔つきながらも違和感はないようだった。
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