
ヤップはきょうも曇りで、しとしと雨の多い1日だった。風は微かで、海はまったりと静まっていた。
62年前のきょう(8月6日)、わが故郷ヒロシマに原爆が投下された。毎年この日のヒロシマは、空は青く晴れわたり暑いものだったが、今年の空は、ヒロシマでも曇っていたようだ。

雨にぬれたハイビスカスの花を見ながら、ヒロシマの暑い夏を思い出していたとき、
低気温のエクスタシーbyはなゆーさんの記事によって、ヒロシマの「原爆」詩人
峠三吉と、久しぶりに再会した。
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
これは、峠三吉による「原爆詩集」の初めにおかれた有名な詩だ。
「原爆詩集」全文を「青空文庫」で読むことができる。
とあったので、さっそく、そのサイトに行ってみた。
峠の詩と向き合うのは、いったい何十年ぶりだろうか。
峠 三吉
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1053.html#sakuhin_list_1
原爆詩集
http://www.aozora.gr.jp/cards/001053/files/4963_16055.html
すべての言葉が、思春期に読んだときとは違った感じで、心にしみてきた。
ふと思い立って、ヒロシマのもうひとりの「原爆」作家、
原民喜を検索すると、すでにかなりの作品が青空文庫に収められていた。
原 民喜
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person293.html

峠三吉が
原爆詩集と、子供たちの詩を集めた『原子雲の下より』の2冊だけを残し1953年に夭折したのに対し、原民喜はもっとたくさんの作品を残した。いわゆる『原爆3部作』として有名になった
壊滅の序曲、
夏の花、
廃墟からでは、ヒロシマで原爆に被災する前後の様子が描かれている。
壊滅の序曲
http://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/1853_7028.html
五月に入ると、近所の国民学校の講堂で毎晩、点呼の予習が行われていた。それを正三は知らなかったのであるが、漸くそれに気づいたのは、点呼前四日のことであった。その日から、彼も早目に夕食を了(お)えては、そこへ出掛けて行った。その学校も今では既に兵舎に充(あ)てられていた。燈の薄暗い講堂の板の間には、相当年輩の一群と、ぐんと若い一組が入混っていた。血色のいい、若い教官はピンと身をそりかえらすような姿勢で、ピカピカの長靴(ちょうか)の脛(すね)はゴムのように弾(はず)んでいた。
「みんなが、こうして予習に来ているのを、君だけ気づかなかったのか」
はじめ教官は穏かに正三に訊ね、正三はぼそぼそと弁解した。
「声が小さい!」
突然、教官は、吃驚(びっくり)するような声で呶鳴(どな)った。
……そのうち、正三もここでは皆がみんな蛮声の出し合いをしていることに気づいた。彼も首を振るい、自棄(やけ)くそに出来るかぎりの声を絞りだそうとした。疲れて家に戻ると、怒号の調子が身裡(みうち)に渦巻いた。……教官は若い一組を集めて、一人一人に点呼の練習をしていた。教官の問に対して、青年たちは元気よく答え、練習は順調に進んでいた。足が多少跛(びっこ)の青年がでてくると、教官は壇上から彼を見下ろした。
「職業は写真屋か」
「左様でございます」青年は腰の低い商人口調でひょこんと応(こた)えた。
「よせよ、ハイ、で結構だ。折角、今迄(まで)いい気分でいたのに、そんな返事されてはげっそりしてしまう」と教官は苦笑いした。この告白で正三はハッと気づいた。陶酔だ、と彼はおもった。
「馬鹿馬鹿しいきわみだ。日本の軍隊はただ形式に陶酔しているだけだ」家に帰ると正三は妹の前でぺらぺらと喋(しゃべ)った。
夏の花
http://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/1821_6672.html
向岸も見渡すかぎり建物は崩れ、電柱の残つてゐるほか、もう火の手が廻つてゐた。私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だといふ気持がした。長い間脅かされてゐたものが、遂に来たるべきものが、来たのだつた。さばさばした気持で、私は自分が生きながらへてゐることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思つてゐたのだが、今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はつと私を弾いた。
このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知つてはゐなかつたのである。
◇◇◇中略◇◇◇
男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちやくちやに腫れ上つて、随つて眼は糸のやうに細まり、唇は思ひきり爛れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横はつてゐるのであつた。私達がその前を通つて行くに随つてその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴へごとを持つてゐるのだつた。
「をぢさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられてゐた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすつぽり頭まで水に漬つて死んでゐたが、その屍体と半間も隔たらない石段のところに、二人の女が蹲つてゐた。その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残してゐる。これは一目見て、憐愍よりもまず、身の毛のよだつ姿であつた。が、その女達は、私の立留まつたのを見ると、
「あの樹のところにある蒲団は私のですからここへ持つて来て下さいませんか」と哀願するのであつた。
見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあつた。だが、その上にはやはり瀕死の重傷者が臥してゐて、既にどうにもならないのであつた。
◇◇◇中略◇◇◇
夜明前から念仏の声がしきりにしてゐた。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしかつた。朝の日が高くなつた頃、女子商業の生徒も、二人とも息をひきとつた。溝にうつ伏せになつている死骸を調べ了へた巡査が、モンペ姿の婦人の方へ近づいて来た。これも姿勢を崩して今はこときれてゐるらしかつた。巡査がハンドバツクを披いてみると、通帳や公債が出て来た。旅装のまま、遭難した婦人であることが判つた。
昼頃になると、空襲警報が出て、爆音もきこえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分馴らされてゐるものの、疲労と空腹はだんだん激しくなつて行つた。次兄の家の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行つてゐたので、まだ、どうなつてゐるかわからないのであつた。人はつぎつぎに死んで行き、死骸はそのまま放つてある。救ひのない気持で、人はそわそわ歩いてゐる。それなのに、練兵場の方では、いま自棄に嚠喨として喇叭が吹奏されてゐた。
◇◇◇中略◇◇◇
馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津へ出た。馬車が白島から泉邸入口の方へ来掛かつた時のことである。西練兵場寄りの空地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行つた。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集つた。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めてゐる。死体は甥の文彦であつた。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れものがあり、そこから液体が流れてゐる。真黒くなつた顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでゐた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いづれも、ある姿勢のまま硬直してゐた。次兄は文彦の爪を剥ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去つた。涙も乾きはてた遭遇であつた。
廃墟から
http://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/1854_21717.html
翌朝、風はぴったり歇んだが、私の下痢は容易にとまらなかった。腰の方の力が抜け、足もとはよろよろとした。建物疎開に行って遭難したのに、奇蹟(きせき)的に命拾いをした中学生の甥は、その後毛髪がすっかり抜け落ち次第に元気を失っていた。そして、四肢(しし)には小さな斑点(はんてん)が出来だした。私も体を調べてみると、極く僅(わず)かだが、斑点があった。念のため、とにかく一度診(み)て貰うため病院を訪れると、庭さきまで患者が溢(あふ)れていた。尾道(おのみち)から広島へ引上げ、大手町で遭難したという婦人がいた。髪の毛は抜けていなかったが、今朝から血の塊(かたまり)が出るという。妊(みごも)っているらしく、懶(だる)そうな顔に、底知れぬ不安と、死の近づいている兆(きざし)を湛(たた)えているのであった。
◇◇◇中略◇◇◇
遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかった。近所の人が死骸(しがい)を運び、準備を整えた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行った。畑のはずれにある空地(あきち)に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれていた。ここは原子爆弾以来、多くの屍体(したい)が焼かれる場所で、焚(たき)つけは家屋の壊(こわ)れた破片が積重ねてあった。皆が義兄を中心に円陣を作ると、国民服の僧が読経(どきょう)をあげ、藁(わら)に火が点(つ)けられた。すると十歳になる義兄の息子がこの時わーッと泣きだした。火はしめやかに材木に燃え移って行った。雨もよいの空はもう刻々と薄暗くなっていた。私達はそこで別れを告げると、帰りを急いだ。
私と次兄とは川の堤に出て、天満町の仮橋の方へ路を急いだ。足許(あしもと)の川はすっかり暗くなっていたし、片方に展(ひろ)がっている焼跡には灯一つも見えなかった。暗い小寒い路が長かった。どこからともなしに死臭の漾(ただよ)って来るのが感じられた。このあたり家の下敷になった儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆(うじ)の発生地となっているということを聞いたのはもう大分以前のことであったが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅かすようであった。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷いでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随(したが)ってはっきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何という初々(ういうい)しい声であろう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さえ泣いているのであろうか。何ともいいしれぬ感情が私の腸を抉(えぐ)るのであった。
登場する地名はなじみ深いので距離感などもリアルに感じられるが、そういった些少な一致だけでは説明できない何かの中に、わたしは自分自身がはまり込んでいるのを感じた。峠のときと同じく、若かったころに読んだ同じ作品の印象とはずいぶん違っていた。わたしの感受性が歳とともに磨かれたせいだろうか?
いや、そうではないと思う。わたしが若かったころには、心の底ではなんとなく
戦争は過ぎ去った昔のこととして見ていた。それが、いまは違ってきた。日本では森政権になってから、世界でいえば2001年の9月11日以後、日本や世界がどんどんおかしな方向へ行ってしまってるんじゃないかという漠とした不安を感じるようになった。そういったことが、峠や原の作品の底流にある部分に感応したのではないだろうか。
1951年3月13日、原民喜は、東京の中央線吉祥寺と西荻の間で線路に身体を横たえた。まだ45歳だった。自殺の直前に書かれた作品の一部を抜粋する。
永遠のみどり
http://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/4757_6710.html
非力な戦災者を絶えず窮死に追ひつめ、何もかも奪ひとつてしまはうとする怪物にむかつて、彼は広島の焼跡の地所を叩きつけて逃げたつもりだつた。これだけ怪物の口に与へておけば、あと一年位は生きのびることができる。彼は地所を売つて得た金を手にして、その頃、昂然とかう考へた。すると、怪物はふと、おもむろに追求の手を変へたのだ。彼の原稿が少しづつ売れたり、原子爆弾の体験を書いた作品が、一部の人に認められて、単行本になつたりした。彼はどうやら二年間無事に生きのびることができた。だが、怪物は決して追求の手をゆるめたのではなかつた。再びその貌が真近かに現れたとき、彼はもう相手に叩き与へる何ものも無く、今は逃亡手段も殆ど見出せない破目に陥つてゐた。
「君はもう死んだつていいぢやないか。何をおづおづするのだ」
特殊潜水艦の搭乗員だつた若い友人は酔ぱらふと彼にむかつて、こんなことを云つた。虚しく屠られてしまつた無数の哀しい生命にくらべれば、窮地に追い詰められてはゐても、とにかく彼の方が幸かもしれなかつた。天が彼を無用の人間として葬るなら、止むを得ないだらう。ガード近くの叢で見た犬の死骸はときどき彼の脳裏に閃めいた。死ぬ前にもう一度、といふ言葉が、どうかするとすぐ浮んだ。が、それを否定するやうに激しく頭を振つてゐた。しかし、もう一度、彼は郷里に行つてみたかつたのだ。
◇◇◇中略◇◇◇
彼はその晩、床のなかで容易に睡れなかつた。〈水ヲ下サイ〉といふ言葉がしきりと頭に浮んだ。それはペンクラブの会のサインブツクに何気なく書いたのだが、その言葉からは無数のおもひが湧きあがつてくるやうだつた。火傷で死んだ次兄の家の女中も、あの時しきりに水を欲しがつてゐた。水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……水ヲ下サイ……それは夢魔のやうに彼を呻吟させた。彼は帰京してから、それを次のやうに書いた。
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
オーオーオーオー
オーオーオーオー
天ガ裂ケ
街ガナクナリ
川ガ
ナガレテヰル
オーオーオーオー
オーオーオーオー
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
出発の日の朝、彼は漸く兄に借金のことを話しかけてみた。
「あの本の収入はどれ位あつたのか」
彼はありのままを云ふより他はなかつた。原爆のことを書いたその本は、彼の生活を四五ヶ月支へてくれたのである。
「それ位のものだつたのか」と兄は意外らしい顔つきだつた。だが、兄の商売もひどく不況らしかつた。それは若夫婦の生活を蔭で批評する嫂の口振りからも、ほぼ察せられた。「会社の欠損をこちらへ押しつけられて、どうにもならないんだ」と兄は屈托げな顔で暫く考へ込んでゐた。
「何なら、あの株券を売つてやらうか」
それは死んだ父親が彼の名義にしてゐたもので、その後、長らく兄の手許に保管されてゐたものだつた。それが売れれば、一万五千円の金になるのだつた。母の遺産の土地を二年前に手離し、こんどは父の遺産とも別れることになつた。
心願の国
http://www.aozora.gr.jp/cards/000293/files/4761_6714.html
今でも、僕の存在はこなごなに粉砕され、はてしらぬところへ押流されてゐるのだらうか。僕がこの下宿へ移つてからもう一年になるのだが、人間の孤絶感も僕にとつては殆ど底をついてしまつたのではないか。僕にはもうこの世で、とりすがれる一つかみの藁屑もない。だから、僕には僕の上にさりげなく覆ひかぶさる夜空の星々や、僕とはなれて地上に立つてゐる樹木の姿が、だんだん僕の位置と接近して、やがて僕と入替つてしまひさうなのだ。どんなに僕が今、零落した男であらうと、どんなに僕の核心が冷えきつてゐようと、あの星々や樹木たちは、もつと、はてしらぬものを湛へて、毅然としてゐるではないか。……僕は自分の星を見つけてしまつた。ある夜、吉祥寺駅から下宿までの暗い路上で、ふと頭上の星空を振仰いだとたん、無数の星のなかから、たつた一つだけ僕の眼に沁み、僕にむかつて頷いてゐてくれる星があつたのだ。それはどういふ意味なのだらうか。だが、僕には意味を考へる前に大きな感動が僕の眼を熱くしてしまつたのだ。
ふと僕はねむれない寝床で、地球を想像する。夜の冷たさはぞくぞくと僕の寝床に侵入してくる。僕の身躰、僕の存在、僕の核心、どうして僕はこんなに冷えきつているのか。僕は僕を生存させてゐる地球に呼びかけてみる。すると地球の姿がぼんやりと僕のなかに浮かぶ。哀れな地球、冷えきつた大地よ。だが、それは僕のまだ知らない何億万年後の地球らしい。僕の眼の前には再び仄暗い一塊りの別の地球が浮んでくる。その円球の内側の中核には真赤な火の塊りがとろとろと渦巻いてゐる。あの鎔鉱炉のなかには何が存在するのだらうか。まだ発見されない物質、まだ発想されたことのない神秘、そんなものが混つてゐるのかもしれない。そして、それらが一斉に地表に噴きだすとき、この世は一たいどうなるのだらうか。人々はみな地下の宝庫を夢みてゐるのだらう、破滅か、救済か、何とも知れない未来にむかつて……。
だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて、人間の存在の一つ一つが何ものによつても粉砕されない時が、そんな調和がいつかは地上に訪れてくるのを、僕は随分昔から夢みてゐたやうな気がする。
ここは僕のよく通る踏切なのだが、僕はよくここで遮断機が下りて、しばらく待たされるのだ。電車は西荻窪の方から現れたり、吉祥寺駅の方からやつて来る。電車が近づいて来るにしたがつて、ここの軌道は上下にはつきりと揺れ動いてゐるのだ。しかし、電車はガーツと全速力でここを通り越す。僕はあの速度に何か胸のすくやうな気持がするのだ。全速力でこの人生を横切つてゆける人を僕は羨んでゐるのかもしれない。だが、僕の眼には、もつと悄然とこの線路に眼をとめてゐる人たちの姿が浮んでくる。人の世の生活に破れて、あがいてももがいても、もうどうにもならない場に突落されてゐる人の影が、いつもこの線路のほとりを彷徨つてゐるやうにおもへるのだ。だが、さういふことを思ひ耽けりながら、この踏切で立ちどまつてゐる僕は、……僕の影もいつとはなしにこの線路のまはりを彷徨つてゐるのではないか。
◇◇◇中略◇◇◇
また、暖かいものや、冷たいものの交錯がしきりに感じられて、近づいて来る「春」のきざしが僕を茫然とさせてしまふ。この弾みのある、軽い、やさしい、たくみな、天使たちの誘惑には手もなく僕は負けてしまひさうなのだ。花々が一せいに咲き、鳥が歌ひだす、眩しい祭典の予感は、一すぢの陽の光のなかにも溢れてゐる。すると、なにかそはそはして、じつとしてゐられないものが、心のなかでゆらぎだす。滅んだふるさとの街の花祭が僕の眼に見えてくる。死んだ母や姉たちの晴着姿がふと僕のなかに浮ぶ。それが今ではまるで娘たちか何かのやうに可憐な姿におもへてくるのだ。詩や絵や音楽で讃へられてゐる「春」の姿が僕に囁きかけ、僕をくらくらさす。だが、僕はやはり冷んやりしてゐて、少し悲しいのだ。
あの頃、お前は寝床で訪れてくる「春」の予感にうちふるへてゐたのにちがひない。死の近づいて来たお前には、すべてが透視され、天の※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32、読みは「こう」、229-上-5)気はすぐ身近かにあつたのではないか。あの頃、お前が病床で夢みてゐたものは何なのだらうか。
僕は今しきりに夢みる、真昼の麦畑から飛びたつて、青く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか、それとも僕のイメージだらうか)雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇つてゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃焼がパツと光を放ち、既に生物の限界を脱して、雲雀は一つの流星となつてゐるのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがひない。一つの生涯がみごとに燃焼し、すべての刹那が美しく充実してゐたなら……。)
原民喜の自殺の原因については、多くの人がいろいろな説をあげているが、結局は誰にも何もわからない。ただひとつはっきり言えるのは、残された者たちのやりきれない悲しみだ。わたしが身近にいたら、
自分から死んでいっちまうなんて、
ひとりよがりの、この大馬鹿やろう
と怒り、泣き騒いだであろう。
自殺すると、なかなかあっちに行けないらしいから、
向こうで会いたい人にも、なかなか会えないらしい。
原爆の前年に病気で亡くした妻に、再びめぐり会えたのだろうか...
原民喜の作品から、原爆投下から1ヶ月もたたないのに、ヒロシマ市内ではバスや電車が(一部区間であっても)復活いたことがわかる。多くの生物は打たれるほど強くなる。投下後75年間は草木も生えないと言われていたヒロシマは、戦後またたく間にたくましく復活を始めた。
しかしその陰で、被災による困窮や疲弊、それに原爆の場合には後遺障害の苦しみと恐怖に加えて、子への影響を恐れて結婚もできず/しなかったケースもあり、『被爆者』に対する社会的・政治的な疎外も甚だ大きく、それがゆえに自ら命を絶ったり、悲惨な生涯を送るはめになった人も多かったことを忘れてはいけない。
選挙に負けたがゆえに急に態度を変えて被爆者との懇親会に出席し、口先だけの甘言を述べたところで、そういう経済的・精神的な崖っぷちを経験してきた人々には、アベシンゾーの魂胆はお見通しだろう。
もしかしたら、原民喜は、そういう崖っぷちに置かれた弱い被爆者のありようを、自死を通して描いてみせたのかもしれない。彼の死にそういう意味があったとしたら、あっちの世界で再び愛する人々と出会いくつろぐことができたのだろうか。
(原爆に関する過去記事)
原爆投下のほんとうの理由-追記あり-
http://suyap.exblog.jp/5812030
再び原爆投下のほんとうの理由と、ジョセフ核軍縮担当米国特使の発言
http://suyap.exblog.jp/5842042
太平洋戦争は避けることができた@ヒロシマ
http://suyap.exblog.jp/4083740/
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
よろしかったら
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