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ミクロネシアの小さな島・ヤップより

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自由??への逃亡(追記あり)

自由??への逃亡(追記あり)_a0043520_914344.jpg先週は晴れ雲り雨と変わりやすく雲の厚い日の多かったが、やっと少しずつ天気が回復してきた。それでもまだ北東の風が例年より強く、海もベタ凪ぎとはいかない。

そんな中を月曜日(6月25日)の夕方、小さな船外機をつけたボートが、こっそりヤップから出て行った。

ボートに乗っていたのは2人のベトナム人。
彼らは10年近く前、インドネシアのベトナム難民キャンプからやはり小さな船で出奔し、ヤップにたどりついた3人の男のうちの2人だった。最初はパラオの離島に入国しようとしたが、米国の意向を受けたパラオ政府から入国を拒否され、ヤップまでやってきた。

当然ヤップのミクロネシア連邦政府入国管理局も入国を認めようとはしなかったが、彼らの乗ってきた貧弱で小さなボートを見たヤップ人は、感嘆し同情した。ほとんどのヤップ人が「追い出すのは可愛そうではないか」と同情し、彼らを「養子」として引き受ける人まで出てきて、その里親と連邦政府との間で何度も聴聞会が開かれた。それはいまだに決着がついていないけど、彼らはノー・ステイタスつまり国籍も旅券も持っていない、ほんとうはこの国に居ないことになっている立場として、ヤップに居続けた。旅券がないのだからヤップを出たらアウトである。もちろん飛行機にも乗せてもらえない。




3人は、それぞれに特技があった。いちばん年長のAは自動車修理工として雇われ、ヤップの女性と一緒になって子供もできた。その次のHはコックの腕があったので補助コックとしてあちこちのレストランを渡り歩いた。一番若いCは腕の良いメカニックで漁業公社の下働きをした。彼らはノー・ステイタスだから、正式な雇用関係を得ることはできない。「雇う」側も彼らを会社の会計の給与システムに入れることはできない。ヤップにいる限り、彼らは安い賃金で使われる便利なワーカーという立場から抜け出すことはできない。

※その後の調べで、2003年に連邦政府イミグレーションとの間で合意に達し、3人はノー・パスポートで滞在をいちおう認められ、就労許可も取得できるが、ヤップ州から一歩も出てはならない-ということになっていたそうだ。

今回ボートでヤップを脱出したのは、HとC。Hは人付き合いが下手で友達もおらず、女にもモテなかったが(笑)、3人のうちではリーダー格ということだった。Cは一緒に暮らすヤップの女性がいたけれど、いつのまにか別れたんだそうだ。ヤップの女性と一緒になり子供もできた温厚なAは、彼らに加わらずヤップに留まることにした。

ヤップを出奔した2人について、島ではいろいろなストーリーが飛び交っている。いつのまにか彼らが手に入れて隠していたボートは、30フィート(約9m)もあるファイバー・グラス製だという人もいれば、いやいや20フィートもないベニヤ板製だという人もいる。エンジンは船外機で1機がけ、そのサイズも25馬力だという人もいれば40馬力だという人もいる。ドラム缶3本のガソリンを積んでおり、GPSも手に入れていたそうだ。しかしボートやエンジンの馬力に多少の差はあるにしても、その程度の「モダン」装備で何千キロもの海を渡ろうとは、いかに海の民ヤップ人といえども思いつかない。風力で走るカヌーなら可能だけど、小さな船外機だけのフラットなボートは転覆したら沈むだけだし、エンジンが故障したらすべてアウトだ。
※いま入った情報では、彼らは簡単な帆布まで用意していたそうだ-あくまで噂に過ぎないけれど。
※その後の情報では、ボートは24フィートのファイバーグラス製、出航直前マリーナのそばのボートが寄せられるガソリン・スタンドでガソリンと混合油を600ドル以上分買い、ボートに積んでいたドラム缶3本にあらかじめ混ぜて入れたという。ボートにはマスト代わりの竹を立てるスタンドまで作りつけてあり、もちろん帆布も竹もGPSも積んでいたそうだ。ガソリン・スタンドの従業員がそこまで見ていながら、誰にもレポートしなかったというのも、すごいけどね。


3人のいずれともわたしは会話したことがあったが、中でもHとは比較的よく話をする機会があった。あるときわたしがグアム経由でニホンに行くと聞いて訪ねてきて、「グアムのベトナム・レストランから食材を仕入れたいので、連絡先を聞いてきてくれ」と頼まれたことがある。今は店じまいしたけど、かつて米軍人と結婚したベトナム人マダムがやっていたベトナム料理屋があって、美味しいしなぜかマダムに覚えられて1品サービスしてくれたりするので、グアムに行くと必ず食べに行っていた。その話をHにもしたことがあったからかもしれない。

それにしても、レストランの補助コックの分際で「食材調達のため」という理由ではわたしを騙せない。「こいつはまだグアム>アメリカへの夢を追いかけている」と思ったので、その夢の馬鹿らしさ、非現実さを説明したのだけど、彼は理解しようとはしなかった。そしてグアムのレストランのマダムに、「いまヤップにこういう3人の男が流れ着いているんだけど」と報告すると、「ぜったいにうちの連絡先や店の名前も言っちゃ駄目よ。かかわらないほうが良いわよ。そんな方法でアメリカに入国しようとする奴らにはロクなのいないんだから。アメリカで暮らす全ベトナム人にとっては、ほんとうに迷惑よ」と言われた。

ベトナム戦争が終結して今年で32年を迎える。1970年代はたくさんのベトナム難民が近隣諸国やアメリカに流れ出し、小さな漁船にすし詰めになってニホンにも流れ着いたりしてボート・ピープルと呼ばれたりしたが、国際情勢の変化にともない、1995年にはベトナムとアメリカは国交を樹立した。

3人の年齢を考えると、ベトナム戦争が終わったとき、Aは20代前半、Hはティーン・エージャー、Cは10歳にもなってなかったはず。なんらかのはずみで彼らはインドネシアに流れ着き、難民キャンプでその後を過ごし、10年前に自由の国=アメリカを目指して小船で出奔した。

たまたまちょっとおかしな自治州ヤップに流れ着いたお陰で、その後の10年を平和に過ごせたのに、その間に国際情勢や米越関係、いまアメリカがどんな国になっているかということを、まったく学習しなかったのだろうか。そういう意味で彼らはstupid(お馬鹿)である。おそらくCはHに引きずられてついて行ったのだと思うけど、Hはほんとうにstupidで罪な奴だ。彼らがヤップで学習する機会は無限にあった。グアムに入国できるはずがないことは、目がふさがれてない限り子供でも理解できることだ。そんなにアメリカに行きたいなら、ベトナム本国に強制送還されてしばらく服役してでも、その後堂々とパスポートを取得すれば可能なことではないか。殺人か何かを犯して本国送還も地獄だと思うなら、暖かく拾ってくれたヤップで一生を過ごす運命を引き受けるのが、自分にとっても、身元保証人になってくれたヤップ人に礼を尽くすという意味でも、唯一の選択だったはずだ。

ヤップを出奔した2人の情報は既に米当局にも行っているから、まだボートが海に浮かんでいれば監視されているはずだ。2人を知るわたしとしては、願わくば無事に命を保ってグアム当局に保護され、ベトナム送還となって命ながらえてくれることを祈るばかりだ。

ところで、ヤップにはノー・ステイタスでおかしな滞在している外国人が他にもまだ2人いる。彼らはミャンマー人で、NLD(国民民主連盟)の活動に学生として参加していて、運悪く逮捕され当局のブラック・リストに名前が載ってしまったので、国を出奔したという。上記のベトナム人と違って、見るからにインテリのお坊ちゃまという風情の彼らは飛行機でやって来た。まずマニラ経由でパラオに入り、そこからグアムに入国するつもりで飛行機に乗ったが、ビザがない彼らはアメリカ領に入国できるはずもなく、連れのうちのひとりが2人分のパスポートを飛行機のトイレで破り捨ててしまった。

911以降、グアム(米国領)方面へ行く飛行機の乗客は、途中駅(笑)でも半分降ろされてパスポート・チェックをされる。そこで彼らにパスポートのないことが発覚して、大騒ぎになった。パスポートのない乗客を運んだとあっては航空会社の責任も問われるから、アメリカ人のパイロットはグアムに連れて行くと言ってくれたが、ヤップの入国審査官は妙な義侠心(?)を発揮して、ヤップに留め置くことを主張した。以来、彼らはヤップに何のステータスもない身として足止めされている。身分がないのだから働くこともできないが、親切なヤップ人に身を寄せて、なんとか生きのびている。

彼らが信奉するアウンサンスーチー女史率いるNLD(国民民主連盟)は、社会主義国家建設を志向し中国とも近い現軍事政権を倒すため、80年代後半にCIAやMI6から送り込まれたとする説もあるくらいで、ミャンマーの政治事情はなかなか複雑なようだ。
軍事政権VSスーチーさんではみえてこない複雑事情
ミャンマー(ビルマ)の政治情勢

【意外と日本とのかかわりが深い、ミャンマー建国の歴史】
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20020522/index.htm
【アウンサンスーチーの登場と《暫定》軍事政権】
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20020522/index2.htm
【外交問題にも発展、ミャンマー少数民族】
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20020522/index3.htm
まだ若い身で、何することもなく身よりもなく、ヤップのような小さな島に留め置かれているつらさは、相当なものだろう。ひとりがパスポートを廃棄したのも、一時拘留されるのを覚悟で、彼らの夢見る国アメリカに行きたい一心からだ。今でも彼らの希望は、国連パスポートを取得して、アメリカまたはカナダ、オーストラリアなどの「自由な国」に行くことなのだ。

初めのころ彼らと話しててわたしが持った違和感は、彼らの思い描く「自由な国」像だった。先のベトナム人と違って、彼らはインテリだし英語もそこそこできる。ヤップにいるうちに、インターネットなどを使って世界の状況を知れば、彼らの考えも変わるかもしれない。

軍事独裁政権の続いているミャンマーでは、確かに言論の自由は保障されていないし政治運動は弾圧されている。しかし、言語や宗教、文化の違う他民族をひとつの国家として保つのは容易なことではない。アウンサンスーチーさん自身が
「自分がこの国を治めていくには、軍部の協力が必要だ。なぜならば、様々な所に少数民族がいて、群雄割拠して、武器を持って政府に抵抗する。軍の協力が必要だ。」
(加藤紘一オフィシャルサイト:「日本が進むべき道」より)
と言っていたという。ちなみに加藤紘一さんが2004年に書いた上記事は、ミャンマーの事態とニホンが取るべきアジア外交の方向を、よく考えさせるものになっていると思う。

ところで、それじゃ、「自由の国」に行けたとして、それからどうするよ?と聞いても、ミャンマーのお兄ちゃんたちにとって、今はとにかく「自由の国に行く」ということだけが目的化していて、来るべきときが来たら国に帰ってミャンマーの民主化革命のために身を捧げるという気概はまったく漂ってこない。中国の革命家魯迅やインドの革命家ボースのような情熱やロマンを期待しているわたしにとっては、いささか拍子抜けだったりして...(爆)。 まあ時代が違うし、人それぞれ色々な事情があって国を出たのだろうからね。

2人のベトナム人の出奔で、彼らの心もさぞかし揺れていることだろう。


(参考)
ラス・ビハリ・ボース
http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p14.html
魯迅に関すること二三
http://www.luxun.sakura.ne.jp/luxun/shoukai/rojinsensei.html


(追記)
上記のふたりのベトナム人は、大時化を乗り切って、無事にグアムにたどり着いていました。しばらく米国移民局に収監されたのち、今はグアム在住ベトナム人の世話になっているそうです。

ミャンマーのお兄ちゃんのうちのひとりは、タイあたりから調達したパスポートでヤップを旅立ちました。もうひとりの正直者のほうは、いまだに悶々の日々を送っていますが、彼なりに現状を学んで成長しています。


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by suyap | 2007-06-28 09:14 | ヤップな日々
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