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ミクロネシアの小さな島・ヤップより

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ヤップの赤トンボも不思議に思う、シベリア抑留者に旅行券?!

ヤップの赤トンボも不思議に思う、シベリア抑留者に旅行券?!_a0043520_0474942.jpg家の前のノニの葉先に赤トンボが止った。
ちょっと水たまりのあるところとか、雨のあとや夕方など、この赤トンボは季節に関係なく飛んでいる。他にも何種類かトンボはいるが、ともかくこの色だからよく目立つ。

ヤップの赤トンボも不思議に思う、シベリア抑留者に旅行券?!_a0043520_0482179.jpg今日はいつになくじっとしていてくれたので、けっこう近くまで寄れた。ほら、このとおり、ヤップの赤トンボは、羽がビロードのように分厚くて赤い。

それで急に話がトンボだけど、こちらのニュースには驚いた。

今日の話題:毎日インタラクティブ
シベリア抑留者:補償また絶望的 特別給付の野党案否決
与党は、法案成立を前提に取り崩した基金の出資金400億円の約半額を原資として、抑留者に10万円相当の旅行券を支給することで合意していた。(太字はsuyap)
はあ~~?り ょ こ う け ん ?

抑留者の方は、お若くても80代前半にはなっておられる。その方たちは、
「ただ金がほしいのではないが、賃金が未払いのままでは『奴隷』と同じ。このままあの世に旅立ちたくない」
という思いで、今まで「未払い賃金」の補償措置を求めてこられた。




それが、どうして「抑留者に10万円相当の旅行券を支給」という発想になるのだろう???

考えられる理由
△ どうせ高齢者ばかりだから、旅行券配ったって、そんな多くは使い切れないだろうから、かなり予算が浮くぞ、うっふっふ。
△ これで世話になってる大手旅行代理店に金を流してやれるな。政治資金をまわせよ、うっひっひ。

この与党案のたたき台を作ったのがどの省庁(おそらく厚生労働省)か、どういう理由で「旅行券」という発想になったのか、わたしは非常に気になる。先に引用した記事の前には、以下の文章がある。
88年に「平和祈念事業特別基金」を作り、記念碑建立や遺骨収集を中心とする慰謝事業を続けるとともに、慰労名目で10万円相当の国債や銀杯を抑留経験者に支給してきた。

 しかし、基金が官僚の天下り先になっているとの批判から、自民・公明の与党両党が基金を廃止する法案を昨年提出。与党は、法案成立を前提に取り崩した基金の出資金400億円の約半額を原資として、(下線はsuyap)

ほほう... 「平和祈念事業特別基金」が天下り先になっていると批判されたんで、自己批判のもとに旅行券ですかぁ?

言うまでもないが、記念碑建立や遺骨収集を中心とする慰謝事業とは、旅行代理店を通して行う事業でもある。旅行者の多様化や、人々の余暇資金の低下、ワーキングプアといわれる層の増加などで、生き残りを賭けて苦労している大手旅行代理店にとっては、これら官製スペシャルツアーは美味しい収入源であり続けた。

しかし、遺骨収集を要望する遺族や戦友の高齢化によって回数は減る一方だし、存続も危ぶまれる状態...なんとかしてくださいよぉ~、と泣きつかれてて...という筋書きが見えてこないか?

ニホン政府は、シベリア抑留者の賃金補償を責任をもってきちんとするべきである。


(参考)
〇 シベリア抑留
第2次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連・アメリカ・イギリスの密約であるヤルタ協定に基づき、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告をし、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した。8月15日の日本降伏後も日本領だった南樺太や千島列島へも侵攻して占領した。それらの地にいた日本軍の士官・兵士・軍属は捕虜として抑留されたが、その数は65万人にのぼるという。捕虜はすぐには本国送還されず、長い者は12年にもわたる年月を主としてシベリアなどの極寒の地で強制労働に従事させられ、抑留者全体の1割にあたる約6万人余の死亡者を出した。

シベリア抑留者の補償問題
国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰れば、その捕虜の所属国が支払うことになっている。

日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府はそれを理由に賃金を支払わなかった。1992年以後、ロシア政府は労働証明書を発行するようになったが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

シベリア抑留経験者で作る全国抑留者補償協議会は2006年10月、未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めて行く事を申し合わせた。

シベリア抑留者に対する「未払い賃金」の補償措置に関する質問主意書

シベリア抑留体験記
シベリアで何が抑留者たちに起こったか。
抑留者を迎えた日本人は彼らに何をしたか。
昭和二十四年十月、ソ連からの引揚は最高潮に達した。帰還者達は明るく逞しい足取りで続々と帰ってきた。
 帰国者それぞれに、苦しかったシベリヤでの思いを振り切ろうとしていた。

 この年の七月四日、忘れようにも忘れられない事件があった。

 ひと足先に帰還したシベリヤ抑留者たちの帰還者歓迎大会が京都駅前広場で開催された。
 何をどう思ったのか、京都・大阪・奈良・滋賀・和歌山の各県警から動員された二万人もの警官隊が、この大会を解散させようと帰還者たちに襲いかかったのである。

 帰還者達の怒号、乱れ飛ぶ飯盒、水筒、はじける服のボタン。京都駅前は正に修羅場だった。これは間違いだ、と必死に平静を呼び掛ける帰還者。乱闘が終わった後に、多数の重傷者が取り残された。

 帰還者達は、訳の分からないまま悔し涙に濡れながら、負傷した友を庇い、故郷に向かって散り散りに去っていく。けが人を運ぶ救急車のサイレンが不気味に鳴り響いた。

 誰一人として、その理由を理解することが出来る帰国者はいなかった。

 昭和二十四年は、国内で世にも奇怪な事件が頻発した年であった。三鷹駅無人電車の暴走・下山国鉄総裁の死・東北松川の列車転覆、これらの事件は今もって真相がはっきりしていない。

 当時米ソ冷戦が既に始まっていて、アメリカに強く影響を受けた政府はこれを、共産主義者による争乱行動だとし、世相を反共に導いた。今にも共産革命が始まる、そんな噂が日本中を飛び交い、世情は騒然としていた。

 シベリアから、共産主義化された筋金入りの赤色分子が帰ってきた。
 そんな噂がどこからともなく流れた。世情は、そのように帰還者を見ていた。



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by suyap | 2006-12-13 23:45 | ヤップでつらつら政治など
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