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ミクロネシアの小さな島・ヤップより

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ヤップと昭和史を生きた人々

ヤップと昭和史を生きた人々_a0043520_22464329.jpg70年以上の年月を隔てて、ヤップ小学校の元同級生が今日、偶然、再会する機会に遭遇した。お2人(男性)とも1926年生まれの満80歳だ。

一緒に机を並べたのは小学校の1~2年生の間だけというのに、お互い積もる話が尽きない。1926年は大正最後の年で昭和元年でもある。お2人の人生は、そのまま昭和史に重なり、ニホンが太平洋戦争に突入していった時期が、そのまま彼らの学校生活時代であり、戦後の悲惨から這い上がって経済的安定を獲得する過程が、彼らの青春・壮年時代であった。戦後産まれのわたしや多くの人が知りようもない時代の感情や思考などが、お2人の話からポンポン飛び出したので、それらを忘れてしまう前に書きとめておきたい。きな臭い動きの激しくなった昨今だからこそ、それは貴重な情報であると思う。

##写真は上下とも天野代三郎商店発行「南洋ヤップ島コロニー」掲載のもの。「ヤップ公学校(1928)」(上)、「公学校の授業の様子」(下) (「公学校」とは島民の行く学校のことで当時ヤップに3校あり、日本人子弟の学校は「小学校」と呼ばれコロニアに1校あった)

ヤップと昭和史を生きた人々_a0043520_22491096.jpgお2人を仮にAさん、Bさんと呼ぶことにする。お2人がヤップ小学校に入学したのは1932(昭和7)年、クラスメートは8人だった。この年の5月15日、一部海軍将校と右翼によって当時の首相・犬養毅が殺害され(515事件)、以後政党内閣の時代は終わり、次第に軍部の発言力が強くなっていった。また前年から始まった日本軍部の中国侵攻は、その後太平洋戦争の終わるまで「15年戦争」の泥沼にはまっていく。

Aさんは、その後1937(昭和12)年までヤップに滞在し、12歳で単身ニホンに送り返されて、旧制中学を経て陸軍幼年学校に入学、陸軍士官学校2年のときに終戦を迎えた。一方Bさんは1935年にご家族と共にニホンに帰国された。

Aさんをニホンに送ったあと、Aさんのお父様はチューク(当時のトラック)環礁に転勤になり、ご両親と幼い弟妹はヤップを離れてチュークに移っていかれた。一方、陸軍幼年学校生として立派な「軍国少年」に成長したAさんは、卒業を控えて士官学校の「兵科」専攻の時期を迎えた。

Aさん: 「あの当時はね、兵科を専攻するのに『航空科』を志願しないと男じゃない、という雰囲気があってね。もちろん僕も『航空科』を第一志望したんだ。でもね、内心、気が気じゃなかったんだけどね」






Aさん: 「あとでわかったんだが、うちのオフクロも僕の兵科専攻をえらく心配したようで、叔母に手紙を送ってるんだ。『わたしは、あの子を[消耗品]にするために育てたんじゃない』と書いてあった」

わたし: 「消耗品?」

Bさん: 「あのころ(1943年当時)は、飛行機乗りのことをみんな陰では消耗品と言ってたんだ

Aさん: 「そうだ。兵科を選ぶのに、一番危険な『消耗品』を志願しないような奴は男じゃなかったんだ。でもね、本当に出来の良い奴とかはね、あれはきっと内々でお達しがあるんだろうね、『機関銃科』なんかを選ぶんだ。恥ずかしいから『俺、仕方ないんだよ、そうしろと言われて、、、ごめんな』とか、謝ってるんだな。『機関銃科』なんかはね、一番危険度の低い科で、そんなのを第一志望にするなんて、最低の評価だったんだけどね。本当に出来るのを、上(軍の)はね、温存しておくんだな。そんなのが将来、主計かなんかに配属されて前線には出されないで、軍備や食料の計算ばかりやってるんだな」

幸い、Aさんは視力検査で引っかかって「念願」の航空科には入れず、砲兵科に進むことになった。ところが1944(昭和19)年2月17日、連合(米)軍は、帝国海軍と民間の引揚げ船が集結するチューク(トラック)環礁に一斉攻撃を加え、39隻の引揚げ船が大きな環礁の内外で乗客・乗員もろとも沈没した。Aさんのご両親と4人の弟妹が乗った引揚げ船も撃沈されたが、Aさんは知る由も無く、2日後の2月19日、陸軍幼年学校卒業式を迎えた。

Aさん: 「さすがにね、いくら統制されているとはいっても『トラックが大攻撃を受けた』という大本営の発表は、何か異常なものを感じて心配していた。そのときはね、撃沈されたのは9隻だと発表していたが、後で調べたら39隻だよ。それくらい本当の戦況を(大本営は)隠していたんだな」

Aさん: 「結局、僕はね、戦争が終わるまで本当のことは知らされなかったんだ。一家全滅で僕だけ生き残ったってことをね。でもね、オヤジが、たぶん引揚げ船に乗る前に書いた手紙なんだろうけど、それには、『ひょっとしたら、東京のどこかで会えるかもしれない』って変なことが書いてあったんだ。その頃は内地(ニホン)に来る手紙も全部検閲されていたから、滅多なことは書けなかったんで、引揚げ船に乗るってことも書けなかったんだろうね。だから、『ひょっとしたら』という心配がずっとあって、非常に不安定な時期を過ごしていたものだよ」

Bさん: 「うちのオヤジはね。内地に引き上げてから単身赴任でサイパンに行っていたんだが、あるとき、何の用事だか知らないがトラックの離島にたまたま遣られていてね。軍隊も何もいない島民だけの小さな島でね、ある朝目が覚めてみると、島のまわりを黒山のようなアメリカの軍艦が取り囲んでいたんだそうだ。それで一斉に艦砲射撃を食らって、島民と一緒にあわてて隠れて震えていると、撃っても応答のないので不審に思った米軍が上陸してきてね、本当に日本兵がいないのを発見したんだが、うちのオヤジはいちおう「軍属」ってことになってたんで、それから捕虜になって、アメリカのウィスコンシン州の収容所でずっと過ごしていたんだ」

Aさん: 「ああ、お父さんはそれで命拾いしたね」

Bさん: 「そうなんだ。サイパンが陥落してから音沙汰ないし、家族ももう駄目だとあきらめててね。それが昭和21年になって、PW(War Prisoner)というしるしのついた制服きたまま、ひょっこり帰ってきたんだよ。そりゃ、大騒ぎになったよ」

ところで、こんな記事を拾った。
dr.stoneflyの戯れ言平良夏芽はかく語りき」(2)…辺野古が『代替』基地なんて大ウソ!!
もともと普天間基地は建設から50年もたっていて、どっちにしても使い難く要らない基地だったんだって。しかも海兵隊の基地である普天間から海軍の基地となる辺野古の移設など考えられないらしい。米軍には4軍あり、それは空軍、陸軍、海軍、海兵隊で、それぞれが己が一番偉いと言い他軍を貶しあっている関係で、軍隊の常識上、他軍が設計した基地計画をそのまま使うなど考えられない、ということだ。


軍隊とか、戦争とか、それを画策する(国家)機構ってものは、とんでもないものってのがよくわかる。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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by suyap | 2006-10-12 23:44 | ヤップの近代史
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