また8月6日がやってきた。広島で生まれ育った者にとっては、どこに住んでも毎年この日だけは「ただの夏の1日」では終わらない。黙祷するでも何をするでもなくても、心のどこかに「今日は8月6日だ」という思いが引っかかっている。61年前の今日、よく晴れた暑い夏の1日が始まろうとしていた午前8時15分、空襲警報解除の知らせにホッとしながら出勤していた市民、
建物疎開に借り出されていた学生、病院の患者や看護婦たち、朝食の後片付けをしていたお母さん、その他諸々の非戦闘員の暮す街の真上で、不思議な閃光が輝いた。
明治以来、陸軍とともに中国地方の商業の中心地として栄えたヒロシマは、その一瞬の光とそれに続いた爆風で、瞬時に壊滅した。右の写真は爆心地と推定される全壊した島病院。この上空580mで、人類初の原子爆弾は壮大な人体実験として炸裂した。その朝、ヒロシマでその光を浴びた人々(1次被爆)は推定35万人、直後に救助活動などで市内に入った人(2次被爆)を加えると被爆者の数は46万人を超えるという。そのうち、1945年12月末までに
約14万人の死亡が確認された。
そのヒロシマで今日行われた平和記念式典に、われらが宰相コイズミも参列したという。
ねじれ川柳惑星「
小学生よりお粗末、小泉の式辞」
デパートや銀行、商店街が並ぶ胡町(えびすちょう)界隈も一面の焦土と化した。遮るものすらないので遠く瀬戸内の海に浮かぶ島々も望める。
たった一発の爆弾でこれだけの被害を出したから「原爆」はNo Moreなのか?世界初の「放射能」被害を出したから「核兵器」No Moreなのか?武器を持たない市民を対象にした大量殺戮だからNo Moreなのか?
ちなみにこういう資料がある。
日本全体の空襲被害
1.来襲米軍機(B29、および艦載機)
400回以上 66.000機 投下爆弾 16万トン
2.被災都市 約150都市町村 うち72市町村は軍事施設の無い市町村
3.被害状況 死者 31万人、不明者 2万4千人、負傷者 35万1千人、
全焼家屋 231万戸、軍需工場 600ヶ所大破、
罹災者 2100万人、疎開人口 850万人、
4.学徒勤労動員 総計 343万人
小学生 163万人、中学生 160万人、大学など 19万人
米軍の日本空襲より。
※この数字にはヒロシマ・ナガサキの原爆とオキナワ上陸戦の被害は入ってないような気もするけど...
焦土と化したヒロシマ・ナガサキの先に、焼夷弾で焼かれた150都市町村と33万人を越す死者・行方不明者が見えるか?731部隊で人体実験されて殺された3000人を超える「マルタ」の呻きが聞こえるか?そしていま、イラクやレバノン、パレスチナで繰り返されている非情な殺戮に倒れる人々の姿が見えているか?
いまこのとき、この式典で、日本の最高行政執行者としてアフォーマンスするんなら、せめて「
小学生レベル」には達して欲しかったんじゃがのぉ。
おんどりゃ~、ヒロシマをなめとるんかぁ!
このところ、「戦争が無くならない理由」について、ずっと考えたり読んだりしている。それが今のわたしの一番の関心事だ。幸いインターネットのお蔭で、以前だったら滅多なことでは入手できなかったような情報にも、その気になれば行き着けるようになった。今は気づいた者から協力して、「知る」努力をしなければならない時期だと思う。できるだけ多くの人間が、この問題を掘り下げ追求していかなければならないと思う、before it's too late!
カマヤンの虚業日記「
いくらでも避けることのできた太平洋戦争」
「太平洋戦争は避けることのできなかった戦争だ」という大嘘は日本人の知性を心底から劣化させるために売国奴どもがしつっこくこの60年間連呼していて、その目的通り日本人の知性は太平洋戦争開戦当時並み、あるいは日中戦争開戦当時並みにまで劣化していてひでえものになっているが、太平洋戦争(日米戦争)はなんぼでも回避可能な戦争だった。マヌケの連鎖が太平洋戦争開戦である。
日本人が知らない恐るべき真実「
操られたルーズベルト⑦」
引き続き『操られたルーズベルト』より引用です。~
(ドール):より端的には、真珠湾攻撃の前に駐日大使だったジョセフ・C・グルーは、五月半ばに「天皇の地位さえ保証されれば、日本は平和を受け入れるだろう」と、トルーマン大統領に訴えはじめています。ウィリアム・D・リーヒ提督も同様の考えをトルーマン大統領にすすめているのです。トルーマンは弁解をつけて返事をしました。最初に彼は「沖縄の陥落を待つ」と言い、六月半ばにはグルーに、「ポツダム会議が終わるまで待とう」と語りました。
ヒルダー:7月17日のポツダム会議の開始時における状況はどうでしたか。
ドール:それはトルーマン大統領が無辜の都市住民の上に最初に原爆を落とし、戦利品目的のためにソ連が参戦する三週間前のことでした。トルーマンは、私の岳父ルーズベルトと同様、CFRによって重大な影響を受けていたことを忘れてはならない。歴史家ゼンダーマンは次のように報告しています。
「ポツダムでトルーマンは、日本と平和を講ずることを主張していた人たちがいかに正しかったかを、直ちに理解したはずである。ここでアメリカの秘密情報機関は東京政府が天皇の代わりにモスクワにワシントンとの平和を仲介してくれるように依頼したことを確認していた。日本が降伏する用意があり、いかなる苛酷な条件でも受諾することに、一点の疑いもなかった。大統領の一言があれば、ポツダム会議の最初の会議が開かれる前にも、アジアの戦争を終わらせるのに十分であったはずだ。しかし大統領はこの言葉を発しなかった…」
そうしないで、彼は8月6日に世界最初の原子爆弾を広島に落とす命令を発したのです。ソ連の参戦の一日前、第二の爆弾を長崎に落とすことを命令した。スターリンは日本を背後から襲ったのです。この結果は、共産主義が北朝鮮を得、全朝鮮、そして日本をも共産主義者が手に入れることを防ぐために、アメリカはしたたか支払わされたのです。長年の間、我々の多くは、トルーマンが単純善良で臆病な性格であり、会議でソビエトの共産主義者たちに対抗して、自己の意見を通せなかったと考えてきました。しかし不幸にもますます多くの証拠が、彼がルーズベルト大統領と同じように、意識的にソ連を作り上げようと欲していたことを証明するのです。
WTCを倒壊させたのは、イスラエルの水爆?
01:【通常より高濃度の放射能が検出された。一体なにが?】
【アフガン暗黒回廊ーアメリカ軍産複合地下帝国の陰謀」 浜田和幸氏 講談社
WTCビルや国防総省の事故現場に急行した医師がガイガー・カウンターで放射能の濃度を測ったところ、通常の10倍以上が検出されたという。その事実をワシントンの放射能情報リソースセンター、環境保護省、FBIなどに通報した。環境保護省の検査官が調査に来たが、「確かに放射能が検出されたが、吸い込まなければ問題ない」といって、お茶を濁して終わったという。その後、この放射能の件はタブーとなっているようだ。
☆☆☆
05: WTC水爆倒壊説 : 軍事専門家の意見
水爆で発生した1000万度の熱で、建物のコンクリート内部の水分が一瞬にして爆発し、コンクリートを粉々に砕いてしまう。人間もOA機器も熱と光に変わってしまい、何も残らない。だから、瓦礫のなかに、ほとんどなにも発見されなかった。
View of a Military Expert: Why the Towers of the World Trade Center collapsed
http://members.surfeu.fi/11syyskuu/soldier5.htm
☆☆☆
09: NYのなかで、WTC周辺だけで、トリチウム(水素のβ放射性同位体)の濃度が上昇している。カリフォルニア大学が、WTC区域で、9月13日と21日に濃度の上昇を発見している。だが、健康に支障はないと判断した。純粋水爆においては、水素の同位体が融合に使われる。
☆☆☆
11: 「世界貿易センター症候群」の原因が放射能ではないかと疑う頭のいい人もいることはいる。だが、せいぜい「劣化ウラン弾」を疑う程度のレベル。だが、そのうち.....劣化ウランだけでは説明できない症状が、周辺住民を襲う.........こんな展開かな?
マヌケの連鎖で乗せられて太平洋戦争に引きずりこまれ、あとで気づいてもtoo late!
引きずりこんだ方にはちゃんと計画したオチへのシナリオがあるのだから、
予定どおりの原爆人体実験、go!
マヌケの連鎖で乗せられて対中・対朝戦争に引きずりこまれ、あとで気づいてもtoo late!
引きずりこんだ方にはちゃんと計画したオチへのシナリオがあるのだから、
予定どおりの(当たった試しのない)迎撃ミサイル基地に最新小型水爆実験、go!
「あら、アメリカ(中国)さん酷いじゃないの、ソ連(アメリカ)さん、裏切ったわね」と後から泣き言いったって、最初から利用するつもりで近寄ってきたオトコにゃ効きやしない。あとで泣き言わない自立したオンナになるためにゃ、まずオトコの徹底研究から始めろよ。複数のオトコを手玉に取って御してみろ。だけどまあ、骨のおしゃぶりもらって尻っぽ振ることしか知らないポチのコイズミや安倍壷にゃ、泣き言いう女にもなれやしないだろうけど。いや、だからこそ、奴らに日本を好き勝手にさせておくのが怖いのだ。
♪三度許すまじ原爆を♪
度し難いアフォーマンスを繰り返すコイズミ・ポチやアベ壷を頂いていては、日本が三度目の核兵器人体実験地にされかねないという不安は、増大するばかりなのである。
過ちは繰り返しません。安からにお眠りください。
みんな加害者、みんな被害者、生きていくということは、それを引き受けること。
今こそ、Let's try our best!
写真は1945年9月から10月にかけて撮影された映像をもとに作成されたドキュメンタリー「語り継ぐ原爆映像・焦土のカルテ」(RCC中国放送1996年8月5日放送)によります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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