今年は満州事変の起きた昭和6年の状況によく似ているという。この75年も前の出来事は、わたしにとっては「誰かの生きた時代」であって自分に引きつけて考えたことなんてなかったけど、昨今の世の動きを考えると、そうかもしれない、という気がしてくる。以前はセピア色になった古写真を眺めるようなつもりで見ていたその時代が、このごろはすぐ身近に感じられるようになった。明治維新というクーデターから始まったニホンという国の体制は、1945年の敗戦を経ても根っこでは何も変わっていないのではないか。そして靖国神社はそのひとつの象徴として生きている。明治から現在までをひとつながりで見てくると、なあ~んだ、と歴史のカラクリがすっきり理解できてくる。こうして目がすっきりしたところで、もう一度、「何が起きたのか」、個々の事象を掘り起こして検討してみることが大切だ。そこで今回は、ヤップ島での戦争をわかる範囲で記録してみたい。
1899年米西戦争で負けたスペインからドイツが「買い取って」いたミクロネシアを、1914年第一次世界大戦の勃発に乗じて日本はそそくさと軍事占拠した。この戦いでは「勝ち組」についたお蔭で、大戦後、列強に混じって日本も何とかパイの配分に預かることができ、このミクロネシア地域を引き続き統治することになった。パラオに南洋庁が設置され、1920年頃から軍に代わって本格的な植民地経営に着手した。以後植民地・南洋には日本から多くの移民がやってきた。ヤップにも1000人を越す日本人がいたという。当時のヤップ人の人口は3000人ちょっとだから、日本人の人口が全住民の1/4を占めていたことになる。時代は大正末期から昭和初期、当時のコロニアの写真を見ると、今より立派な建物がたくさんあって驚く。
日本人の職業は、南洋庁職員、郵便局関係者、学校の先生(日本人とヤップ人それぞれの学校の)、商店、貿易商社、病院関係、豆腐屋、鍛冶屋、木材屋、主に沖縄出身者の漁師、朝鮮半島出身者のコプラやナマコ仲買業、料亭、遊郭まであったという。
満州事変(1931年)、515事件(1932年)、
226事件(1936)、
日中戦争開始(1937年)、
ノモンハン事件(1939年)へと、時局はどんどん太平洋戦争突入に向かって進んでいたが、ヤップでの暮らしは真珠湾攻撃(1941年)の後もかなりの間、「戦争?どこの話?」と、のどかなものであったという。
しかしハワイで見せかけの大勝をしたのも束の間、1943年頃になると太平洋の戦局はミクロネシアの島々にも影響を及ぼすようになった。同年の春から南洋拓殖会社の新社員としてヤップに赴任した高橋英二さんによる「
ヤップ島回想記」によると、着任当初は「天国のよう」(ご本人弁)な南国の暮らしに3ヶ月で10キロも肥って「朝早くからバリバリ働いた」そうだが、
1943.11.27(昭和18年11月27日)創立記念日に南拓事務所前で社員全員が撮影された一枚の写真があるが~中略~。此の頃から、そろそろヤップ島も情勢が変化してきたようだ。
高橋さんの勤める南洋拓殖会社(以後、南拓)は南洋庁ヤップ出張所からの要請で、現在のルール地区の飛行場建設工事に1943年12月から全社を挙げて着手した。この工事には島民、在留邦人はもとより南拓が経営していたヤップ島ガギル地区の銅鉱とファイス島の燐鉱採掘作業員(その大半は朝鮮半島出身者)も動員して突貫工事が行われた。1944年2月初旬には海軍の第205設営隊先遣隊が到着した。
その頃ヤップ島にいた民間邦人(沖縄・朝鮮半島出身者を含む)は900人くらいだったが、飛行場建設工事にファイス島から700人近くが導入されて一時は千数百人にのぼった。そして後述する初めての空襲の後、4月から陸・海軍の上陸にかわって婦女子と病・老人が引き揚げたため、残った邦人は約800人くらいだったようだ(元南拓職員・小林文吉氏の資料による)。鉱山労働者の大半が朝鮮からの労働者であったことを思うと、この数字にはかなりの朝鮮人も含まれているはずだ。
ルール地区に南拓が中心になって建設していた飛行場は3月30日までに長さ900mX幅60mの滑走路を造り、戦闘機等の不時着が可能となった。しかし、3月31日ヤップ島は米軍による初めての空襲を経験した。ヤップ島の飛行場建設状況は連合軍(米軍)側にはお見通しだったのだ。再び高橋さんの手記に戻ろう。
忘れもしない1944.3.31(昭和19年3月31日)その日はいつもと同じ快晴で朝の朝礼、点呼が終わり解散の号令 が出たとき、誰ともなく飛行機だ、との声がする。爆音がかすかにきこえる。皆が一斉に上を見上げるとはるか上空に飛行機らしきものが近づいてくるのが見え る。だんだん機影が大きく見えてきた誰かが日の丸だ! 日本の飛行機だ!と叫んだ。皆がわっと歓声を挙げて上空を見つめた其の時パラパラと何かが落下した 途端にズズーンともの凄い炸裂音がした。敵だ!空襲だ!と誰かが叫ぶ。一瞬全員声なく動転した。遂に来たぞ!逃げろ!一斉に樹林の方に我先に走り出した。 とたんに耳元で機銃の炸裂音がもの凄い音でダ、ダ、ダ、キューン、バリバリ、バリ、ダ、ダ、ダ、と息つく間もなく連続射撃。敵は急降下して宿舎のトタン屋 根を狙ってきたのだ。あっと言う間に宿舎は猛火に包まれ物凄い煙と炎が舞い上がった。
この空襲で作業員が数名亡くなった。彼等を荼毘に付し埋葬するため何人かの人が協力していたがかなりの時間がかかった。 そして南拓事務所の社員達はルエッチ村からウギリの鉱山の坑道へ避難することになった。出発する前に我々の宿舎が気になり見に行ったら唖然とした。大きな 宿舎は完全に焼失していて、まだ布団などが黒い煙を出してくすぶっていた。黒焦げの水槽塔だけがポツンと立っていた。機銃でやられた数カ所の穴から沸騰したお湯が勢いよく吹き出していた。
この空襲のわずか後、4月10日と12日にかけて海軍第205設営隊の主力部隊が到着してトミル地区に第二飛行場の建設に着手、4月24日には中国東北部(満州)戦線から転進を命じられた陸軍独立混成第49旅団の主力部隊が到着した。空襲でやられたルールの第一飛行場は修復・拡張されて長さ1,440mX幅60mになり、5月11日には海軍第46警備隊が上陸した。その後5月12日から13日にかけて海軍第503航空隊所属の彗星が、同月25日には海軍第202航空隊所属のゼロ戦があわせて約50機以上もやってきた。一方5月24日には陸軍歩兵第66連隊第Ⅰ大隊、30日陸軍第10連隊第Ⅲ大隊が上陸した。
到着した陸軍がまずやったことは、島中の浅い海中に木杭と鉄条網で何重にも砦を築き、海岸には深い溝を掘ること。当初連合軍(米軍)の作戦では、パラオ、ペリリュー、アンガウル、ヤップ、ユリシーを一気に攻撃するプランだったが、結局フィリピンの攻略にはペリリュー島とユリシー環礁を奪えば済むということになって、ヤップへの上陸作戦は行われなかった。後にヤップに上陸してきた米軍将校は、「君達はラッキーだった。9月にヤップ島上陸の予定が急に作戦変更になった」と言ったそうだ。
日本軍が上陸してきて海中や海岸線に砦を築くためとスパイ活動を恐れて、ヤップ人は全員、海の側から島の中ほどに集められた。これは海で暮らす島の人々にとっては、とんでもないことであった。おまけに父祖伝来の海と海岸がどんどん壊され荒らされ、砦にするために大きな木は全部徴集された。ヤップの大きな集会所やカヌーは全部壊して砦の材料にされてしまった。日本人にとっては迫る戦局に対処するための当然の処置でも、島の人々の理解と了承を事前に得たとは思えないので、日本軍によるこれらの行為は、とんでもない力による蹂躙であったことには違いない。
米軍の作戦変更の原因がヤップ守備隊の強固な守りによるものかどうかはわからないが、彼らがヤップ島守備隊の兵員数をかなり多めに見積もっていたことは確かのようだ。1944年3月31日の空襲以降、激しく続いた空襲と艦砲射撃の日々は同年9月を境に落ち着いて、次に待っていたのは食料の枯渇という問題だった。約3000人の島民と800人の邦人(ほとんどが現地召集または軍属として徴用されていた)に加えて、陸・海軍あわせて約6000人の兵士が食べていくには食料の備蓄が少なすぎた。もちろん日本本土からの供給は全く望めない。当初両軍とも1年から1年半分の食料を運んでいたが、輸送船から食料を降ろす時点で激しい空爆にあい残った食料は2割もなかった。そこで攻撃が一段落した9月以降、全軍を挙げての食糧生産活動が始まった。上記の小林氏は農業指導の専門家として島内各地でサツマイモ栽培とヤップに自生する食べられる植物について講習会をやったという。しかし植えた芋が収穫できるようになるには数ヶ月を要し、翌年(1945年)1月から5月頃まで、ほとんどの兵士が飢えと栄養失調に苦しむことになった。パパイヤの根やトカゲまで食べ、南洋栗(タイヘイヨウグルミ)は大ご馳走だった。やっと芋が収穫できるようになると、一個丸ごとずつで供給された芋の大きさをめぐって大の男が取っ組み合いのけんかをするほどに飢えていた。このため炊事班では、蒸した芋を一度つぶして茶碗で平等によそわなければならなかった。しかし、こんなに飢えていても、「島民の田んぼには手をつけないように」という司令部の命令は徹底して守られていた。
ヤップに駐留した陸・海軍の戦病死者数は、陸軍:250名、海軍:94名となっている。この中には小林氏が約800名と数えた民間人と約3000人のヤップ人の中から出た戦死者は含まれていない。そして病死者のほうが戦死者より若干多く、病死の死因の大半はアメーバ赤痢だったという。最初の空爆で病院が全壊したため、野戦病院ができたものの医薬品は慢性欠乏状態で、医者はヤップの民間薬もすすんで採用していたそうだ。また極端な栄養失調や胃腸障害を起こした者は兵士ばかりで、ヤップ人はもとより長年ヤップに住み暮していた民間人には病死者はいなかったという。
一方、激しい空襲や艦砲射撃で亡くなったヤップ人がどのくらいかと思って聞きまわってみたところ、多くて4人とのことだった。今よりうんと人口の少ない当時のことで、島の人の生き死にはすぐ島中に伝わるから、これはほとんど間違いのない数字だと思う。そのうち2人は、ライ病患者として隔離されていた小島に空爆を受けて逃げるに逃げられず亡くなったということだ。爆撃によって負傷した人も多いが、これも民間療法や運良く野戦病院の手当てを受けたりして治した。
ヤップ島上空で日本軍戦闘機や地上砲火によって撃墜され、その詳細が判明している米軍機は43機にものぼるというが、脱出した乗員が捕虜になる例もあった。また足ヒレとナイフだけ携行した3人の「水中戦闘爆破隊員」も密かに上陸したところを捕獲された。彼らは潜水艦で島の近くまで運ばれてきて水中の地形や水雷の位置などを調査していた。捕虜は尋問を受けた後、全員パラオに送られた。このため戦後ヤップ守備隊で戦犯に問われた者はいなかった。
1945年3月11日、鹿児島の鹿屋基地から2500キロ離れたユリシー環礁に向け24機の銀河が3機の二式大艇(大型飛行艇)に誘導されて出撃した。銀河の航続距離では往復の燃料は搭載できず、本土や沖縄への攻撃準備中の在ユリシー米軍艦隊を片道切符で特攻する作戦だった。記録では14機がユリシーの敵艦隊に突入したとなっているが、不調機の続出や日没後の攻撃となったことなどから、あまり成果は上がらなかった。1機は米空母「
ランドルフ(Randolph)」の飛行甲板後部に突入して25名の死者と106名の負傷者を出したが、その後ランドルフはすぐに修理され沖縄戦に参入、以後30年も空母として活躍している。
その同じ日の3月11日の日が暮れて、攻撃目標を見つけることができなかった3機の銀河がヤップ島に不時着した。
ルールの飛行場にいた海軍航空隊のひとりが、上空で旋回する飛行機の音を聞きわけ、「銀河だ、味方だ」と叫んだので、総員でガソリン松明を手に滑走路に走って誘導したが、一機はもんどりうってクラッシュ・ランディング(乗員は無事)、もう一機は無事着陸、そして更に一機は飛行場から遠く離れたルムングの浅瀬に不時着となった。この乗員3名も無事だったが、機内から日の丸を持って脱出したところを、味方とは知らない陸軍守備隊によって銃撃され、3人とも死亡した。撃った方としては悔いても悔い切れない同士討ちだった。
この出撃で銀河を誘導していた3機の二式大艇には帰還が命じられていたが、1機は不明となり、もう1機は東の
ウォレアイ環礁に
不時着、無事帰還したのは1機だけだった。
ヤップ島守備隊司令部では、連合軍側のメルボルン放送、ニューデリー放送を毎日欠かさず傍受していた。実際に通信係だった人に聞いたのだけど、
ポツダム宣言も原爆投下もいち早く知っていたという。そして8月13日、突如3食「穀食復帰」、それまで食事は芋ばかりだったのが、朝飯も昼飯も夕飯も米の飯になった。敵の上陸があった場合に備えて備蓄していた食糧を、司令部は放出することにしたのだ。8月13日の時点で、各地に展開して兵を率いる将校たちのどれだけが、敗戦とその後の処理手順を考えていたのだろうか?
その他にもヤップ島守備隊司令部はおもしろいお触れを出している。曰く、「今日より褌一丁で働くことを許す。陛下から授かった軍服は、いざというときに備えて大事に保管せよ」。お蔭で多くの兵士は暑苦しい軍服を脱いで、島民と一緒になって褌一丁で農作業や漁業に精を出したのだった。置かれた状況で可能な限り情勢を読み、無駄な殺戮や抵抗を避けて生き残るためにベストを尽くす、そういう方針の司令部を持ったヤップ島守備隊は確かにラッキーだったと思う。
8月16日、米軍は降伏を勧告するビラを空からまき滑走路に通信筒を落とした。日本側の答えは、爆撃でボコボコになった滑走路に文字を書いて伝えることになっていた。写真は8月28日に書かれたその答を米軍が空撮したものだ。
WAIT A FEW DAYS. WAITING FOR THE ORDER FROM PALAU.(パラオの命令を待っているのでもう少し待て)と読める。ヤップ島守備隊は、パラオ地区集団長指揮下になっていたためだ。
9月5日、アメリカの駆逐艦ティールマンにヤップ島守備隊(陸・海軍)の主だったメンバーが乗りこんで降伏の調印が行われた。その後も武装解除は平和裏に行われ、9月末から11月にかけて順次帰国が始まった。11月以降も武器・弾薬の処理と復興のため、各隊から選抜された470名が残って米軍に協力して作業にあたった。1946年2月には最後の残留作業隊員が帰国した。
降伏後おそらく米軍上陸前から、兵士たちはかなり明るいムードで過ごしたようだ。サツマイモを育てる農耕班、ヤップ人の指導の下で魚を取る漁労班のほか、芋から焼酎を造る焼酎班まで作られた。そして夜には時々ささやかな宴会や寸劇も催されたらしい。ヤップに来られた元兵隊さんたちにとって、それは懐かしい思い出になっている。
今まで戦争をしていた相手の船にスタスタ乗りこむ日本軍の将校を見て、日本が降伏したことを知らないヤップ人はみな驚いた。また米軍上陸後に収容されていたキャンプから、江藤大八守備隊長以下、主だった将校たちが米軍のタバコ、ラッキー・ストライクや缶詰を土産に持って島の有力者の家を訪問したりしたから、「コロネル江藤はスパイだった」という噂が戦後のヤップで広まった。今でも信じている人が少なくない。
上陸した米軍将校が言うように、確かにヤップは間一髪で上陸作戦を免れて「ラッキー」だった。だが無駄な損傷や死を避けることができたのは、ただの運だけでは無い。食料枯渇を予測して早めに農耕計画を立てたり、野山に自生するものを食べる指導をしたり、薬までヤップの草木で工夫したり、暑い軍服着用を免除したり、敗戦間違いなしと踏んだらすぐに食料放出したり、司令部のタイムリーでバランス感覚のある決断はあっぱれだ。英語に堪能な下士官もいた(通訳ができる下士官が、他の隊にも必ず配属されていたかどうかは知らない)。陸軍ヤップ島守備隊長江藤大八大佐は、降伏が決まった直後の8月中、監視所や高射砲の設置されていたコロニアの裏山に「鎮魂の碑」を建立している。
どこの世界でも勝てば官軍、アメリカによる戦後の教育では、日本時代や日本軍のことは当然ボロクソに言われてきた。「防空壕は日本軍がヤップ人を入れて焼き殺すために掘らせた穴」というデマは、ヤップの戦後世代のほとんどがいまだに信じていて、日本人のわたしにまでそう説明してくれる。今の日本人が太平洋戦争の悲惨な体験を簡単に忘れ呆けているように、こちらの戦後世代もアメリカの世を謳歌している。だから防空壕のことをそう聞いても、日本の戦争責任を追及したり戦後アメリカのやったことを批判したりすることはない。ただ何の悪気もなく「信じている」ことを口にするだけなのだ。
それでは、あの戦争や防空壕のことを知っている世代はどうしたのか?
もう元気な人は少なくなったが、あの時代を知っている人に聞いてみると、「戦後の学校で自由だ、民主主義だ、平等だ、などと好き勝手なことを習ってくる子供らに何を言っても聞く耳を持たないから、仕方ない」と黙っているのだそうだ。これは防空壕のことだけでなく、ヤップのしきたりや伝統についても同じこと。ヤップでも世代間の断絶は、やはり大きい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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