天候: 曇
風向: 東北東
風力: 11ノット
気圧: 1008hPa
湿度: 82%
気温: 28.1℃
過去6時間の最高気温: 31.7℃
過去6時間の最低気温: 26.7℃
(6月19日20時52分現在のヤップ気象データ)
(注)「天候」「気温」に関しては、観測時間によってデータに大きく差がでます。一般的に夜は雲が多く気温も低いです。
ヤップには「いかにも観光地」みたいなものは何もない。幸い先祖代々続く共同体組織(普通「村」と訳される)がまだ機能しているので、そのうちの観光客を受け入れている「村」に案内して、いわゆる石貨や石で舗装された小道や伝統的な造りの集会所を見てもらったり、島の8割以上の海岸線を被うマングローブや、もちろん海の自然に触れてもらったりの、いわば「ありのまま」の勝負で「観光」をやっている。わたしは、それらを「手つかずの自然が残る」とか「原始の伝統の島」とかいった、現実とかけ離れた訳のわからない嘘のキャッチ・コピーでは絶対に宣伝しないが、ともかくヤップの観光が良くも悪くも「生の勝負」であるのは事実で、それが今のところヤップの売りでもある。
そんなヤップの「生」の観光オプションのひとつに戦跡がある。そのほとんどは、もちろん太平洋戦争のもたらした残骸だ。ヤップ島には陸海軍あわせて7000人強の日本の兵士が送りこまれ(後記:この数字は誤りでした。正しくは陸軍4423名、海軍:1494名。詳しくは
ヤップの高射砲-訂正をご覧ください)、色々な事情で連合軍(米軍)の上陸作戦はキャンセルされたものの、250人が戦死/病死(後記:同じく、正しくは陸軍250名、海軍94名)された。この数字には、ヤップ人、日本の民間人・軍属、朝鮮半島から連れて来られた労働者で戦争のために亡くなった方々は入っていない。
太平洋の島々で暮すと、60年ちょっと前に日本軍がやったこと、連合軍(米軍)がやったことの数々は、決して遠い過去ではないのが実感される。上に書いたように、へたに保護とか加工されずに、戦争の残骸が朽ち果てるままにゴロリと転がっているから、より「生」なメッセージが伝わるのかもしれない。左の写真は荒地に放置された高射砲だ。
あるとき、中国戦線で砲兵隊にいたという元兵隊さんがいらっしたので、「こんなもんで、空を飛んでる飛行機を撃ち落とせたんですか?」と聞いたことがある。そしたら、「ほとんど当たらないのはわかってるけど、下から火の手が上がるのは怖いもんさね。あっはっは」とお答えになった。
それでも、こんなに分厚い鉄の銃身に、こんな穴があいている。きっと飛来した戦闘機から機銃で撃たれたものだろう。ということは、この高射砲を操作していた兵士たちは・・・
太平洋戦争の話は、戦後ヤップのあちこちの村で踊りになった。ヤップの踊りは、いわば村の「歴史書」でもあるから、ヤップの人たちにとって何が何だかわからないままに戦争に引きずりこまれた経験は、記録すべき重大な出来事だったはずだ。
以下はカダイ村の踊り、
ガフゴウ ウ タナマル(辛苦のつらさよーとでも訳せるか?)の歌詞の意訳だ。こういう意味の踊りを、日本人やアメリカ人の観光客が一緒に、意味もわからず観賞して喜んでる光景は、かなりシュールなんだけど・・・
ある日(日本の)兵隊が、たくさんヤップにやってきた。敵から島を守ってくれるのだそうな。だけどうちらにゃ何の戦さだかわかりゃせぬ。兵隊は村の中にも住みこんで、うちらは追われてジャングル住まい。
ある朝(アメリカの)飛行機が、たくさんヤップにやってきた。どでかい音が東の空からとどろいて、やがて鳥の大群が島の空を被ったさ。あまりのことに気も動転、バスケも何も放りだし、命からがら逃げ出して、オカガニのように防空壕に隠れこむ。
暗いカニの穴の中、うちらはただもう震えるばかり。飛行機が爆弾を落とすたび、空が落ちてくるかと思ったさ。大地は地震のように揺れ動き、子供らは恐れと餓えに泣き騒ぐけど、食べ物なんかありゃしない。
ついに日も暮れかけた頃、ようやく穴から這い出たけれど、(タロ芋の)田んぼは(日本の)兵隊に囲まれて、近づくなんてとんでもない、何をされるかわからない、腹が減っても芋もない。
それからずっと戦さの間、ジャングルのカニの穴の中、私らはいろんなことに耐えてきた。そして、ほんとに諦めかけた。ひもじい中で子供は病むし、この恐ろしい戦さを、ほんとに生きてやり過ごせようとは、誰も思ってもみなかった。
(翻訳・意訳 by suyap)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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