きのうの朝ヤップのまわりの海の色を空から見てて、「わあ~濁ってるなあ」と思った。案の定、わたしの留守中は雨がけっこう降ったそうで、海も波の高い日が多かったらしい。そんな中、スキっと晴れた3日の金曜日だけは、大潮の数日後という潮まわりも味方して、マンタも久々に勢ぞろいしたそうだ。運よくその日に潜ったダイバーたちは大喜びだけど、それから先がまた尻つぼみ、出たり出なかったりしているという。「俺たちの出番は、俺たちの気分で決めさせてくれい」 from マンタ。
だから、マンタと良い時を過ごさせてもらおうと思えば、どういうときに彼らの気分がハッピーになるのか、常日頃からよ~く観察して、大人数で潜らないとか、マンタの進路妨害をしないとか、もちろん追わない、触らない、騒がない、サンゴも壊さない、痛めない、etc. ダイビングサービスの端くれとして、お客様の協力を得て出来るだけのことはしているのだけれど、わたしたちの手に負えないところで、ヤップの海の何かが大きく変わっていっているのも、たしかに感じる今日このごろなのだ。
ヤップには、昔々から神さんが住むと信じられてきた木がある。その代表的なものが左写真の
アウ(ガジュマル、F
icus microcarpa)と、去年の11月20日のブログ
早朝ダイビングで書いた
ビヨッチ(テリハボク、
Calophyllum inophyllum)だ。
もちろん、ここでいう「神さん」とは複数で、日本のヤオロズの神さんのようなものだ。おもしろいことに、こういう神さんのことをヤップ語で「カン」という。良いカンもいるし、怖いカンもいるし、いたずらするけど憎めないカンもいるって感じ。中には半分人間で半分カンっていうのもいるらしい。そして、この世のあらゆるものや場所にカンは出没する。こういう考え方を、昔は「原始宗教」だとかいって馬鹿にしていたけど、最近は学者先生方の間でも、ちょっと見直されてきているらしい。でも「見直す」というふうに構えちゃう行為じたいが、まだ第三者的で「外の人」だけど。
ヤップのすごいところは、それが「第三者的」じゃなくて、まだ神さんたちと共存しているような人がいるということだ。たとえば、隣のトトロ(もちろん英語をしゃべるトトロだけど)を一緒に見てて、いかつい顔のおっさんがいきなり、「うちにもあんな穴がある」とマジな顔で言いだしたりする。「子供のころ、おばあさんに『ここは神さんが漁に行く通り道だから塞いではいけないよ』と言われた」とね。
アウやビヨッチのように大きくなる木には神さんが住んでいて、その木を切らなければならないときには、必ず神さんと話ができる人(そういうシャーマンのような人があちこちにいた)を呼んできて、木の中の神さんたちに、木を明け渡してくださるようにお願いしなければならない。それで神さんの許可が出れば切っても大丈夫なのだけれど、許可なく切ってしまうと必ず罰があたるという。「あの人はね、畑をつくっているときに、ほんの小さなアウを切ったばかりに、次の日、兄さんの吹き矢が目に刺さって失明したのよ」という話を、マジでしてくれるオバサンもいる。
「論理的」に推察をすれば、こういう大木になる木は、根の下から木のてっぺんまで数えきれないくらい多くの生物に宿を提供し、空気中の炭酸ガスを吸収して酸素を供給し、地面を直射日光から守って有機物の分解速度を調整し、、、などなどと、まわりの環境にたいへんな貢献をしているので、これらを切リ倒すと、そのエコシステムが破壊される。だから、こういう木を切ることを、先人は「神さんが住んでいるから」という話で諌めたのだ、となる。ついでにマンタとの関係にも触れておくと、大きな木を切ると、山の保水能力が失われ、大雨のたびに濁った雨水が海に直接流れ込んで海を濁らせ、マンタはそういう濁った水のときはダイバーの前に姿を現しにくい、と続くのだ。
それでも、あとから頭で「理解してる」のと、体で「覚えてる」のとでは、やはり後者のほうが強烈だ。頭で理解してるだけだと、違う理論が気に入れば簡単に変わってしまうけど、体で覚えてしまった人というのは、ちょっとやそっとのことでは変われない。わたしがいまだにお茶碗にご飯粒を残せないのは、小さいときからおばあちゃんに厳しくしつけられたせいだ。一粒でもご飯を残したまま箸を置くと、からだの中がゾワゾワしてくる。体で「覚えてる」というのは、そういう感覚だと思う。
そういうのは幼児期からの「刷り込み」によってできるもので、わたしは、この「刷り込み」という作業によって、人間の文化や歴史が、それにすべての動物の存続が作られていくのだと思う。生命の存続の方向につながるようなプラスの刷り込みがされれば、その生物は繁栄し、逆の刷り込みに陥れば淘汰される。
ヤップの現状も含めて、地球上ではものすごい勢いで物質至上主義が進んでいる。かつては静かに木と語り、風に耳をすまし、闇に観た時間が、強制的に入ってくる明かりや雑音に奪われ、暑い日に耕さずとも、冷たい水に触れずとも、質を問わなければ腹は満たせる世となった。それと時を同じくして、人間の生活から、次の世代をつなぐためのプラスの刷り込みが、どんどん消えていっている。
久しぶりで会ったヤップ人の知り合いが、大きなトラックに乗っていた。
わたし「役人を辞めたみたいだけど、いま何しとるん?」
おっさん「ああ、一時退職金でチェーンソー買ったんや。それであっちこっちから木を切ってくれっちゅう注文が来て、けっこう忙しいんや」
わたし「木切るゆうて、ビヨッチなんかも切るん?」
おっさん「そうや、あれは、ええ値がつくで」
わたし「ちゃんと神さんにお願いしてから切っとるん?」
おっさん「何をいう。オレはプロテスタントやで。あんなデビルスピリットのカンなんか、信じるもんか、アホくさ」
わたし「そいでも、罰あたったらどうするん?」
おっさん「ああ、アホくさ、そんな迷信・邪神は信じるもんか。もう行くで、さいなら」
戦後、ハワイ大学がかかわって編纂した「ヤップ語/英語辞書」には、カン=デビルスピリットと書いてある。ほんと、文字というのは「書いたもん勝ち」の暴力だ。文字を持たなかった文化の豊かさに思いを馳せることの大切さに、はやく多くの人が気づいかないと、ほんま地球は駄目になるかも…。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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