今日も晴れたり曇ったり降ったりの忙しいお天気になりそうだ。朝の時間をつかってこれを書いている。
さて、「ヤップの女たちの抗議を受けて南洋神社の鳥居が建替えられた」と昨夜は書いたけれど、今朝、86才になる知り合いのおばあさんにも当時の様子を聞いてみた。この南洋神社には彼女が公学校(島民子弟の小学校)に入った年から学校で引率されてお参りしていたそうだから、やはり1930年前後にはもう建っていたことになる。ところがその神社も鳥居も、彼女の記憶ではアメリカの爆撃で壊されたはずという。そして、なんと彼女はいま鳥居が建っていることを、知らなかったのだ!昨日の写真でもわかるように、鳥居のまわりにはいつもゴチャゴチャ物が置いてあり、わかりにくいのは確かなのだけれど、、、それにしても、彼女の家はコロニアの近くだし、1960年代には、いま州議会議場になっている建物の中に当時あったYAPCAP(Yap Community Action Program)というオフィスで働いていたそうだから、私がきのう聞いた話とは大違いだけど、こちらにも信憑性がある。頭も体もまだしっかりした人で、60年代の彼女は40代の働き盛りのワーキングレイディだった。一方、きのうのインフォーマント(情報提供者)のほうも、実際の鳥居再建に若いワーカーとして加わった人なので、こちらも信用できる。う~ん、いったい何がどうなったのだ???ひとつはっきりしてきたのは、南洋神社のことや鳥居の再建なんて、今も昔も、ヤップの人にとってあんまり話題になることではなかったんだろうなってことだ。
左の写真は今の階段のクローズアップで、上の建物が州議会議場だ。正面のセメントで作った階段の横に、ヤップ式の石で作った参道らしきものがあり、その上に、これまたヤップ式の石のファンデーションがあるのだけど、これらはみんな日本人が作った当時のままだそうだ。
セメントの階段を昇った両側には、灯篭が2つ、当時のままで残っている。これはその右側のもので、その右手に並んでいるのは、戦後に各地から訪れた慰霊団の方々が建てられた戦没者の慰霊碑だ。その背面に石のファンデーションがある。
灯篭をよく見ると、キメの細かいセメントで作った型の表面に、花崗岩かなにかを粉砕したものをコーティングしてあるのがわかる。かなり剥げ落ちているけど、なかなか手のかかった製作だ。いまの鳥居の再建作業に加わった上記の方の話では、オリジナルの鳥居も同じような工法でできていたそうなのだ。
ところで、セメントの階段の下から数段目に、おもしろいものが埋め込まれているのを発見した。この写真では、はっきり読めないかもしれないので書き出すと、U.S. COAST & GEODETIC SURVEY BEACH MARK/FOR ELEVATION, WRITE TO THE DIRECTOR, WASHINGTON D.C./NO. 2 1951となっている。アメリカが1951年に設置した海岸の測量観測点だ。
このように、ヤップの南洋神社跡は、戦後いろいろな変遷を経て、なぜだかヤップ人の手で建替えてもらった鳥居とともに、なんとなくその名残を残しているのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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