仮住まいに引っ越して、放置されたままの
わが猫の額菜園、元々ノニの木が生えていた場所に植えたトウガラシが、異様な速さで成長している。
これに花が咲いて実を収穫できるまで、果たして倒されずに残っているだろうか?すべては家の修理に入る大工さん次第なんだなあ。
明日が見えないところは、うちのトウガラシも、ヤップも、ヌッポンも、アメリカ~も同様だけれど、それにしてもヌッポン人の現実認識の希薄さには、もう驚きの言葉すら見つからない。わが生れ島が、どんどん色彩を失って、スローモーションで遠ざかっていくような…眩暈感。2014年07月01日、安倍政権は世界に宣戦布告した(…も同然)。
日曜日の午後、
新宿駅前で焼身自殺した憂国の紳士について、ものすごい情報統制がしかれている。ネット上では、その
政治的メッセージを打ち消したり、揶揄したり、ひやかしたりの書き込みが、事件直後から見られたが、「事件の矮小化」を図ろうとする意図は丸見えだった。しかし、かなり突っこんで事件の詳細を知ろうとしない限り、そういう意図的な書き込みに騙される人が多いだろう。
身体に火がついてから一部始終を撮ったビデオをよく見ると、「警察発表」はほんとうなのか?と疑ってしまう。
焼身自殺では火傷ではなく、ほとんどが体を取り囲む炎によって、酸欠で死ぬという。警察の言うとおり、彼はほんとうに「重症だが意識はある」状態で済んだのか?「落ち着いたら起訴」と言いながら、いまだに氏名も出てこないのは、なぜなのか?「サイレンの鳴らない救急車で搬出された」という説もある。ほんとうは亡くなったのではないのか?
考えるところあって
敢えて写真を掲載したが、ネットに飛び交う焼身自殺の映像を見て、「気持悪くなった」とか、「ショックを受けた」という反応ばかりが強調されている。なぜなのか? いかなるヒトも、生きとし生けるモノのイノチも、やがて今生の「死」を迎えるというのに。
少なくとも60年代…ベトナム戦争がおかしな形で終焉する前までは、死体写真はフツーに報道されていたし、それに文句を言う者もいなかった。「死」が、今よりもっと生活に密着していたのだろう。
わたしがそれなりの歳になったせいか、あるいはヤップ島で暮らしているせいか、人の死に際に立ちあう機会も増えてきた。こちらでは「死に目」に身近に立ちあうどころか、何日も続く葬式のあいだ中、遺体に寄ってくるハエを追いながら、女たちは遺体に24時間体制で付き添い、泣き歌をうたいながら故人を送る。ここではまだ、「死」が人々の生活と共にある。
いずれわが身にもやってくる「死」から目をそむけ、いったい、どんな「生」を過ごせるというのか?ひとりのニンゲンの「生」の終焉を直視することで、明日を生きるわが身の道が決まると、わたしはいつも思っている。だから、どんな「死に際」からも絶対に目をそらさず、全身全霊で受け止める。
官憲メディアのひた隠し具合から察するに、新宿の覚悟の紳士は、もしかしたら創価学会の信者さんだったのかもしれない。
以上。
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