5月は貿易風が吹いたり弱まったりする季節の変わり目、雨も適度に降って、なかなか趣のある季節だ。ガギル地区はワニヤン村にあるセント・ジョセフ教会は、やや多めの雲が流れる青空の下、きれいに刈られた芝生の中にすっくと建っていた。
ヤップで初めてキリスト教の布教が始まったのは1886年のこと。その前年にドイツと統治権を争った末、ローマ法王の決済によってスペインに軍配があがり、同国はヤップ統治のための軍隊と
カプチン派の神父らの一団を送り込んだ。
スペイン人の神父らにとってはいろいろと悪戦苦闘の布教活動だったろうが、ヤップの人々にとってはいらぬお世話で余計な迷惑、とくにヤップ島の「人」と「神」の橋渡し役を務めてきた神官たちにとっては、彼らがもたらした異郷の「神」は、ヤップの伝統システムを犯すとんでもないシロモノであった。かくしてカソリック「教会」とヤップ「神官」のたたかいが始まった。しかし軍隊と共に居座るスペイン当局のバックアップを受けて、彼らは数年のうちに、コロニア、南部のグロールに続いて、この地にも初めて教会が置かれたようだ。
米西戦争に敗れたスペインは、1899年グアムをのぞくミクロネシアの統治権をドイツに売り渡した。それに伴い、ヤップのカソリックの布教活動もスペインからドイツの
カプチン派へと代わった。その後の時間をグルルンパと端折り、1914年、第一次世界大戦の勃発と共に日本軍がミクロネシアを占領、敗戦国ドイツ・
カプチン派の神父らは追い出され、1921年、再びスペインから今度は
イエズス会の神父らが送りこまれた。
彼らの記録によると、1920年代から1930年代初期のころまで、イエズス会カソリック教会と日本の統治当局との関係はうまくいっていたようだ。神父が日本当局のレセプションに招待されたり、たまに教会のミサにやってくるヤップ支局長がいたという。またヤップ人のカソリックへの改宗も、この時期、めざましく増加した。スペイン、ドイツ統治時代にあれほど苦労してはかどらなかった改宗が、なぜ日本統治時代に進んだのか、とっても不思議な気がする。「外国」の統治者が入れ替わり立ち替わり入ってきて、それとともに外からの物資の流入や、ヤップ人自身の外との接触が増えたせいか、それとも「宗教」に鷹揚だった日本当局のせいか...?
やがて1930年代後半も入り、日本が日中戦争のドツボにはまっていく中で、カソリック教会と日本当局の中も剣呑になっていった。ヤップに南洋神社が建立されたのが1933年だから、そのころから既に兆しはあったかもしれない。このセント・ジョセフ教会にいたベルナンド神父は、他の2人の聖職者と(アメリカに雇われた)フィリピン人の気象観測者共に、1944年7月パラオに送られ、同年9月、スパイ容疑で処刑された。
※1944年8月、ワニヤン村近くの浜で、「教会を捜していた」3人の米海兵隊員潜水夫が捕獲された。米統治下のフィリピン人、スペイン人イエズス会神父らが、日本にとって「敵国」の連絡員を働いたとしても不思議ではない。かといって裁判もなく「処刑」するのは、今の米国がオサマ・ビン・ラデンに対してとった行為と同じで、全く申し開きの余地なし。両方とも「カルト」だから同じような行動とるのかもね。
第二次世界大戦後の米国統治下、ミクロネシアのカソリック教会はニューヨークのイエズス会が担当することとなり、ヤップでもアメリカ人神父らを迎えて、布教はより大きく進展した。今では人口の約8割が(な~んちゃって)カソリックとなっている。それと同時に、戦後を境に、ヤップの神官が「消え」た。あるものは跡継ぎを育てず、あるものは戦後まもなく、不思議な死を遂げた(誰に消されたか近親者のみ知っている)。
(後記)
「セント・ジョセフ教会の壁画」というタイトルを打ちながら、なんと記事はヤップのカソリック布教の歴史...で、壁画のほうですが、ヤップ人のキリストと使徒を描くのは、このセント・ジョセフの伝統のようです。先代の壁画は2004年の台風で吹っ飛び、これは2代目、8人の使徒が石貨や離島の女が織った腰巻などを、キリストに献上しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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