スノーケリングやダイビング、それに
ビーチ・ピクニックなど、このブログでもときどき取り上げるタラング島。コロニアのすぐ近くにあるこの小島の歴史を、ちょっこっとと書きとめておく。
この島は、下に述べるような歴史のせいで地権者がはっきりせず(or たくさんいすぎて)、太平洋戦争後、州政府が「史跡」に指定しているわりには、実質ほとんど管理されない状態で今日まできている。コロニアからボートで数分なので、ジモッチーのピクニックにもよく利用され、ひどくゴミが散らかっているときもあったが、現在ではFMI(ミクロネシア連邦の海員学校のようなもの)の生徒がときどき清掃や整備に来てくれるお陰で、ずいぶんと小奇麗になった。
海岸からちょっと中に入ると、ほとんど手の入ってない潅木に被われ、大きなマンゴーの木が林立する半ジャングル状態となる。一方、海岸はほとんどマングローブに被われており、
小さな入り江の泥地は、オイランハゼやテッポウウオ、ミナミトビハゼなどの素敵な観察地である。また、それに続く藻場やサンゴ場では、内湾スノーケリングやダイビングを楽しめる。
そんなタラング島の奥の方へ、多いかぶさる潅木の枝を払いながら数分進むと、突如現れる赤レンガの廃墟!そう、これは19世紀の末、ヤップをひとつの拠点として、香港~西太平洋の島々で、30年に渡って手広くナマコとコプラの商売をやったデービッド・ディーン・オキーフ(
David Dean O'Keefe)の屋敷跡なのだ。
オキーフがアイルランドからアメリカへ渡った移民だったせいもあり、太平洋戦争後にミクロネシアをアメリカが統治するようになってから、彼を題材にした小説や映画がアメリカで作られ話題になった。そのせいもあって、オキーフについては、いまだに小説や映画の「作り話」が「実話」として一人歩きしている感がある。
たいていのガイドブックでは、オキーフは乗っていた船が難破してヤップ人に助けられたことがヤップで商売を始めるきっかけだった云々とか、以後彼はこの島でキングとなり、タラング島を「所有した」云々とか、書いているけれど、それらの話には、アメリカ+西洋白人好みの「南の土人の島で王様になる成功伝」としての「作り話」が多分に入りこんでおり、真実とはほど遠い。それに加えてオキーフ自身も、生前そういう「伝説」の成立に加担したフシもある。
そんなわけで、リアルなオキーフ像はなかなか表に出てこないのだが、オキーフの実像にかなり迫る書き物としては、出来る限りの現存する資料を基に書かれた、
ミクロネシア・ゼミナールのFrancis X. Hezel神父のものが、かなり信頼できると思う:
〇
MicSem Articles:The Man Who Was Reputed to be King: David Dean O'Keefe
http://www.micsem.org/pubs/articles/historical/frames/O%27Keefefr.htm
ちょっと長いですが、興味のある方は読んでみてください。現在の
Wikiの記述は全くデタラメですからご用心!
↓ジャングルの中あちこち↓に、こういう赤レンガの残骸が見つかる。このレンガはヤップ人のカマドを作るのに重宝されていて、長年にわたって、かなりの量が持って行かれちゃってるけど...
19世紀に太平洋を渡り歩いた白人商売人の中でも、オキーフはずば抜けてスケールの大きい男だったことは確かだ。1871年に幼い娘と妻を残したままアメリカを出奔したオキーフは、ヤップ島のみならず、マピア(現インドネシア領赤道直下にある小島)、ソンソロール(パラオ共和国の南西にある環礁)にもコプラ・ナマコ交易の基地を持ち、マピア在住の白人商人とナウル人女性の間に出来た娘をマピアに、その娘のオバ(ナウル人)をヤップ島に置き、それぞれとの間に子をなしながら、自分の交易基地の管理や子育てをまかせていた。両方の「妻」との間に出来た娘たちには、香港で教育を受けさせたという。西太平洋の島々と中国・東南アジアを結ぶ交通は、今のわたしたちには想像するのが難しいが、当時としてはわりと普通にあったのだろう。
そんな生活を約30年送ったあと、
1901年5月、2人の息子たちとヤップ人クルーを乗せた自分の船で、香港からヤップに向けて出航したオキーフは、そのまま戻って来なかった。彼の消息が消えてから、アメリカ、ヤップとマピアの家族の間では、その遺産をめぐっていろいろあったようだ。
ヤップにいたオキーフのナウル人妻デリブは、1926年に亡くなるまでタラング島に暮らし、その後も
娘のユージニを中心にオキーフの家族が住み続けたが、1937年、日本の南洋庁政府によって立ち退きを命じられた。その経緯や根拠が何だったのだろうか。1937年(昭和12年)というと、日本は満州での戦争を拡大し、欧米列強による日本への経済封鎖が始まりかけていた年である。
↓このコンクリート製の天水貯蔵タンク↓は、オキーフ時代のものと思われる。今では様々な種類の蚊の幼虫(ボーフラ)の培養池として活躍中(笑)。このタンクのお陰で、タラング島は蚊の研究者たちの間ではサンプル採取の適地として人気だけれど、ちょっとでもジャングルに入ると、日中でも蚊の総攻撃にあうから、それが気になる人は虫除け対策を怠れません!
1937年にオキーフの家族がタラング島から立ち退いた後、この島は南洋拓殖会社によって、ヤップ州離島のファイスから採取した、リン鉱石の集積地として使われたという。今での島のあちこちにセメント袋がそのまま水気を吸って固まったものが大量に転がっているのは、その当時のものと思われる(↓写真右)。
今でもボートからの上下船に利用する桟橋の残骸や立派な係留ビットも、日本時代のものかもしれない(↓写真左)。この島に鉱石集積地があったのを察知していた米軍は、1944年以来、激しい空爆を行った。オキーフの家が破壊されたのは、その空爆によるものである。
1937年以降、南洋拓殖会社によるタラング島の使われ方がどういうものであったか、ほとんど資料が残っていないが、島内に数個転がっているトロッコの残骸も、もしかしたら当時に置かれたものかもしれない。
以前は草むらの中に人知れず転がっていたのだが、最近、島に行って驚いた。
なんとトロッコの頑丈な鉄製フレームが、BBQの炉の網置き台となっていたのだ(
オバサンのお尻は無視して、緑の矢印の先にトロッコの残骸があります)。
FMIの生徒たちがタラング島を整備してくれるのはありがたいが、引率の教師も含めてこういう歴史的遺物のことは全く知らないから、こういうことが起きる。
しかしそれを見て、わたしの方から何も言うことはできない。だってオキーフの廃墟も含めて、この島を勝手に占拠して色んなものを構築し、それを壊し置き去りにしたのは、みんな力ずくで入ってきた「余所者」だったのだから。
しかも、主にアメリカ人の後押しで「史跡」に指定はされたが、ヤップ州が率先して動いたことは今までない。同じくアメリカ・サイドが動いて多少の金や予算が確保できたときだけ、
↓こういう
↓構築物を作ってみたり掃除が入ったりと、過去にも繰り返しいるが、その金が切れるとまたやりっぱなし...というパターンを、もうずっと長いこと続けている。
こうなる理由のひとつに、オキーフ以来、この島がどこ(誰)に帰属するのか、ハッキリしなくなっている、あるいは未だに係争地である面があり、政府としては手が出しにくいということもあるかもしれない。
なにはともあれ、歴史遺物の保存も大事かもしれないけれど、まずこの島にあまり人の手が入らないように、今のまま自然のままに、陸の植生や海の状態が維持されることを、わたしとしてはもっとも願っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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