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ミクロネシアの小さな島・ヤップより

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カテゴリ:ヤップと戦争( 25 )

舞い散る桜の下で

今回のsuyap@japanもそろそろ終わりに近づいてきた。

毎度のことだけれど、今回お会いできなかった方々、まことに申し訳ございません。また管理人自身が一週間以上も放置しているにもかかわらず、何度もこのブログを訪れて、ブログ・ランキング・サイトをポチッ…もうしとつ…ポチッと応援してくださっている方々、ほんとうにありがとう!お陰さまで、あんまりアクセス数が落ちとらんのでたまげたけれど…こりゃ~、ここら辺でなんか書かんにゃ、いけんねえ…(なぜか広島弁)。

というわけで、今年もわが故郷ヒロシマを訪れ、去年同様、被曝2世&2世半の同窓生と時間を忘れて盛り上がったのだけれど、今年は以前から気になっていた、もうひとつの場所へも足を伸ばしてきた。
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東国から夜汽車を乗り継いで、かつて備後の中心地であった福山城址を訪れた日の朝は、格別の寒さで震えあがったけれど、東京で見そびれた桜(ソメイヨシノ)の花びらが、まだハラハラと舞い散っていて感激。うわ~今年もなんとか桜が見れた!

a0043520_9352617.jpgまずは、まだ人影少ない城址内をそぞろ歩いて桜を堪能し、天守閣にある福山城博物館の開館を待って見学したあと、ゆっくりと裏道を下っていくと、「阿部神社」と書かれた石柱が見えた。目的地である備後護国神社が、近年まで阿部神社と呼ばれていたと知って、ちょっと感ずるところあり…。現ヌッポン国首相も安倍サンだけど、阿部=安倍氏族って…隠された古代のなにやらを…あれしてこーしてふむふむ?

まあそれはさておき、宮本武蔵サンが座ったという石を横目に見ながら本殿正面側に出て、広く立派な石段を下っていくと、各地の戦没者慰霊碑が、続々と目に入ってくる。そして残り少なくなったデジカメのバッテリーを気にしながら、たどりついた先が、
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メレヨン島戦没者
慰霊碑
巨大な碑であった。

メレヨンとは、ヤップ州離島のひとつウォレアイ環礁のこと。そこに1944年から送られた日本帝国陸海軍の将兵、軍属あわせて5500人を上回る人々が、戦没(その死因のほとんどが餓死、もしくは栄養失調による病死)された。

ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたこと
http://suyap.exblog.jp/6032304/

碑の裏には、その数千人に及ぶ戦没者のお名前が、ひとつひとつ刻まれている。
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正面前広場からの備後護国神社の眺め。左手の大きな碑がメレヨン島戦没者「慰霊碑」。

そのウォレアイ環礁では、滑走路の老朽化が進み、ここ数年、軽飛行機すら降りられなくなっている。ヤップ島や他の島からのアクセスは、州または連邦政府が運営する不定期の連絡船のみで、ひと月(あるいはそれ以上)に一回といったところ。したがって、2007年を最後に、厚労省の遺骨収集事業も行われていない。

テレビをつければ、安倍っちや防衛相の無様な顔ばかり映り、空疎な「防衛論」が連呼されるという信じられない世相になってしまったなか、桜の舞い散るこれらの慰霊碑に集う戦没者の「英霊」は、いったいなにを思っておられることか。
命とりのアメーバにかかりてすべもなし
 ただ生きのびむ心をはりて
国亡びて山河ありといふことば
 しみじみおもひ南洋にをり
  (メレヨン島・ある軍医の日記/中野嘉一)
1945年8月14日につづられた歌である。

ヒロシマ、ナガサキにとどまらず、フクシマを経験したいま、「国亡びて山河あり」という言葉さえ虚しく響く。便利で、清潔で、一見なんでもスムーズに生活が進むかに思える日本に2週間ほど滞在してみて、「国亡びて山河…すら」の思いが強まるばかりだ。

わがエアー・カウンター君は、福山駅前でいきなり0.20μSvを出した。花崗岩のせいで広島県東部は自然放射線が高い土地柄だけれど、平均0.14~0.16μSvが出た。広島市内では平均0.09~0.12μSv

ガンマー線の空間線量はあくまでも目安、これが上昇しているってことは、呼吸や飲食を通して体内に取り込む様々な人工放射性核種もモチロン増えているってこと。ここまできたら、こんな世の中に誰がしたっ(怒)と静かに憤りつつ、ただ生きのびむ心をはりて、コツコツと自衛するっきゃない!ってわけで、今回もホテルでせっせと米とぎ汁乳酸菌&豆乳ヨーグルト作製中で~す。

もう15万部売れたきのこちゃんの名著:

発酵マニアの天然工房


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by suyap | 2013-04-18 13:17 | ヤップと戦争

負けを負けと認めることから始まる第一歩

ヤップはきょうも曇り空だけど、お天気がそんなに崩れるふうでもないので、ちょっと安心だ。

8月15日、日本ではいまだに「終戦」記念日なんて言っている人がいるが、正確には昭和天皇が「打ち方止め~」と国民に宣言した日。でもいったん戦争を始めたら、ひとつひとつの戦闘地域ごとに負け組の責任者が「負けました~もう抵抗はしませ~ん」と文書に署名するまで正式には戦闘は終わっていないわけで...そういう文書を英語ではInstrument of Surrenderつまり降伏文書と言う。
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上の写真は、1945年9月6日(一説では9月5日)に米駆逐艦ティルマン(Tillman)上で行われた、日本陸・海軍ヤップ島守備隊の降伏文書への調印式の模様だ(国立公文書館所蔵)。日本軍側からは江藤大八陸軍大佐(独立混成第49旅団長)、田中正道海軍大佐(第46警備隊司令)ほかの姿が見える。

それに先立ち同年9月2日に東京湾に入ってきた戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書調印の日が、正式には日本国の「敗戦(降伏)記念日」なのですね。

きっこ ‏@kikko_no_blog

「敗戦」のことを「終戦」と教えられて育つと、「ミサイル」でなく「飛翔体」、「爆発」でなく「爆発的事象」、「冷温停止」でなく「冷温停止状態」、「脱原発」でなく「脱原発依存」などという玉虫色の表現が好きな大人になるようだ。
ほんとうに...降伏文書のことを停戦協定などと言い変えたり...こういう国家組織の上層で胡坐をかいているモノドモ(官僚らのことね)=真の戦争責任者ら=による言葉のゴマカシと、それに追従するメディアのプロパガンダによって、ほとんどの日本人が現実を見ようとせず虚構の中を生きてきた。だから尖閣や竹島で問題が起こされると、事の道筋もわからず右も左も上も下もファナティックに騒ぎ出す、意図を持った筋に踊らされているだけとも知らずに。
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さて67年前のヤップでは、あんなに激しくドンパチやっていたのに、ある日突然、敵(アメリカ)の大きな船がヤップに入ってきて、それに日本軍のエライさんがぞろぞろと乗りこみ、いきなり「もう喧嘩はやめ~」と宣言したものだから、ヤップの人たちは驚いた。

降伏の調印後、陸軍の士官らはコロニア近くのキャンプに収容された。ところが江藤大佐を含む上級仕官がフンドシの島民姿になって、世闇に紛れ、スパムやタバコなどのアメリカン・グッズをお土産に、戦前からヤップに在住していた英語もできるロシア人一家を訪れたという。その逸話をわたしが解釈するに、おそらく連合国側が進めていたヤップでの戦犯審査を有利にするためへのお願いだったのではあるまいか。しかしフンドシ姿の陸軍守備隊長がアメリカ煙草を両親に渡しているのを見たその家の子供(いまはおじいちゃんだけど)は戦後、「江藤はアメリカのスパイだったんだぞ!」と触れまわるようになった。もちろんアメリカ人はそういう話を聞くと嬉しがるしヤップ人もおもしろがるから、本人もますます得意気に話しつづける。しかし日本人までそれを鵜呑みにしている姿は滑稽だ。

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もちろん江藤大佐はスパイではなかったし、防衛省資料編纂室に行けば、その帰還報告書を見ることもできる。また米軍がやって来る前の8月中に、江藤大佐はヤップ島産の石で「鎮魂の碑」を建立し、それが今も残っている(上写真左)。

さらに驚くべきことに、ヤップ島各地に駐屯していた部隊は、日本への本格的な引き上げが開始される1945年12月初旬まで解体されず、米国旗が初めて上がったのも、12月に入ってからだった。そのような中、同年11月頃から、日本軍兵士たちによってヤップ島のあちこちに「戦没勇士の碑」が建立されていった(上写真右と下両写真)。

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材料はセメントと石、当然、米軍の許可がないとできなかったであろう。現在でも3ヶ所の碑が残っている。

こういう風にスムーズにSurrender(降伏)し、戦後処理を進められたのは、やはり日本軍のヤップ島守備隊のリーダーたちがちゃんとしていたお陰だろう。戦中から彼らは日本の「負け戦」を正確に認識しており、江藤大佐は兵たちに、軍服を脱いでフンドシ一丁で島民と一緒になって食糧生産に励むことを奨励していた。
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そんな食糧生産作業(農耕と漁労)中、アメリカの戦闘機が「もう闘いは終わったよ」というビラをまき始め、多くの兵がそれを拾って読んだ。ヤップの守備隊司令部のほうも、ポツダム会談から宣言、日本による受諾という動きを正確に認識していたので、連合軍側からコンタクトを受けるとすぐに、上記のような意思表示を白い石を並べてしめした。WE ARE WAITING FOR THE ORDERS FROM PALAU. つまりヤップ島守備隊の上級部隊はパラオにあったから、その指示を待っているという意思表示だ。それらが上記9月6日の降伏文書調印へと繋がっていく。そんな流れでヤップ島の戦争は終わった。

最後に、今回の記事タイトルに沿うべくやや強引にまとめると、先がしっかり見えるリーダーがいるといないとで、群れ全体の生存の可否がずいぶん変わってくるということだ。そして何事においても、つらくてもまず現実をハッキリ認識することから、第一歩が始まるということも。

これって、今の日本とヤップの右往左往を、すごく象徴しているなあ...。不明のトップを抱えて、日本よ、ヤップよ、どこへ行く?


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by suyap | 2012-08-15 12:15 | ヤップと戦争

ある陣地跡にて

ヤップでは晦日ころから良いお天気に恵まれてきた。きのうから少し雲が増えてきたけれど、まだそんなに大きく崩れることはなさそうだ。
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南の島では雲ひとつなく晴れわたるより、少し雲がかかっていたほうが日中の活動には都合が良い。そんな好条件のもと、2012年「初」戦跡ハイキングに行ってきた。
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太平洋戦争中、ヤップ島の守備についていた陸軍独立混成第四十九旅団は、コロニアの裏山にも相当な戦陣を張っていた。
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それらは今ではみなジャングルに埋もれてしまっているので、戦跡ハイクでは蛮刀で生い茂る植物を切り分けながら進む。すると、戦後70年近い歳月を打ち捨てられたままになっている九一式十糎榴弾砲などが、次から次へと出てくるのだ。よくもこんなに重いものを、人力だけでこんな山の上に持ってこれたものだ。
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すでに崩れ落ちた陣地壕跡や、まだ形の残っている見張り壕なども見られる。今では下草や木々に埋もれてまったく判別つかないけれど、どうやら当時、この地は連なる山々全体が陣地として構築されていた形跡である。
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うす曇のお天気に恵まれていたとはいえ、熱帯のジャングルの中を数時間歩き回るのはやはり暑い。それでも山の中の木々に覆われた場所にいた間は木陰でしのげたが、下って開けた場所に戻ってくると...

a0043520_5184148.jpg先頭を行っていたこの村のローカル・ガイドLくんが、道傍にあったオオバギの小枝をひょいと切り取って、日傘がわりにして歩き始めた(笑)。

炎天下の日差の強いところでもお構いなしに立ち止まって話し始める島外からの訪問者に接して、地元の人間はよく困惑する(またはあきれられる)。生まれながらに強いお日様の元で生きている彼らは、炎天下での活動は極力避けようとするし、どうしても避けられないときには、本能的に日陰を捜して適度に休むか、Lくんのように即席の日よけ対策を講じて体力の消耗を防ごうとする。

今回もすぐ近くに木陰があるのにわざわざ日差の強いところに止まって話し始めるゲストを見ながら、67年前に満州からヤップに送りこまれ、この陣地を築いた日本兵たちのことを、ふと思ったのだった。


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by suyap | 2012-01-03 06:25 | ヤップと戦争

こんなものを遺さないように

いよいよ大晦日...
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とはいっても、世間様がお休みのときが仕事のしどきになるこちとらの稼業、あまりゆっくりブログしている暇はないのですけど...

きのうのダイビング中、妙になついて(?)きたナンヨウツバメウオがいて、ずっとわたしたちを追っかけてきました。このダイビングでのひとつの目的は、太平洋戦争時に日本海軍が設置した水雷のアンカーを見に行くこと。後ろの四角いのがそうですけど、そこでもナンヨウツバメウオくんがちらちらしてくれて、いかつい戦争遺物に「花」を添えてくれました?!

それにしても...戦争をしている両方の側で、

兵士も、残された家族も、一般市民も...戦争で得するものはおりません。

それでは何のために戦争をするのか...?させられるのか...?

その戦争で「誰」が得したか、得するだろうか...と「考える」ことで見えてくるでしょう。

人々の「愛国心」を煽って「得」するのは「誰(どういう組織)」か?

戦争で兵器を売って「得」するのは「誰(どういう組織)」か?

いまこそ、もういちど過去の戦争を洗いなおして考えるときだと思います。

再び、だまされないために...。


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by suyap | 2011-12-31 06:20 | ヤップと戦争

ヤップに眠る米海軍機F6F-5ヘルキャットを記憶にとどめる展示の落成式

去る7月27日、降りしきる雨の中を、太平洋戦争中にヤップ島を守備していた日本軍によって撃墜された米海軍機F6F-5ヘルキャットを移設展示した場所で、その戦闘機のパイロットのご遺族、米国大使、米海軍士官を迎えて、その記念落成式が行われました。
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1944年9月6日午後、当時ヤップ島近海にいた3隻の米航空母艦のひとつ、エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)から飛びたった30機(搭乗クルーは35名)近い米海軍機F6F-5 ヘルキャットの中に、ジョセフ・E・コックス少尉(Ens. Joseph Cox)とハワード・A・ホールディング少尉(Ens. Howard A. Holding)がいました。

同年6月から繰り広げられたB-24 リベレーターによる間断なき空爆、ならびに艦砲射撃により、すでにヤップ島の日本軍は壊滅的打撃を受けていましたが、滑走路のまわりでは、海軍設置の120ミリ高角砲や陸軍の80ミリ高射砲が、まだひっそりと銃口を空に向けて米軍の空襲に備えていました。

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午後の太陽に隠れるように、南西方向から日本軍滑走路とコロニアを目指して飛来してきたヘルキャットの第1編隊にいたハリー・D・ブラウン中尉(Lt.(jg) Harry D. BROWN)機に、まず地上からの砲撃が命中し、機はコロニアの西側の丘に激突炎上しました。そして次の瞬間、第2編隊にいたコックス機も砲撃にやられ、機はコントロールを失って右側にいたホールディング機と空中衝突を起こして両機とも墜落しました。

a0043520_1118654.jpgコックス少尉の遺体は日本軍あるいは島民により機体の側に埋葬されていたものが戦後見つかり、アイダホ州の遺族の元に還ることができましたが、ブラウン中尉とホールディング少尉の遺体はまだ見つかっていません。しかし2005年から始まったMissing Air Crewの捜索により、コロニアの近くの山中で大破したブラウン機の残骸と、激しく損傷を受けながら水中に散在するホールディング機が確認されました。

a0043520_11185668.jpg空中衝突後、裏返しになって墜落して60年以上が経過したにも関わらず、比較的原型を留めて残っていたコックス機は、2年前にヤップ州土木部の前庭に移設されていましたが、Missing Air Crewメンバーを中心とした働きかけにより、コックス少尉とホールディング少尉のご遺族、駐ミクロネシア連邦米国大使、米国海軍を迎えてのセレモニーが実現しました。

ヤップで66年前に起きた出来事を知ろうとするには、先祖代々からの住民であったヤップ人、当時領有権を主張して戦略的に守備していた日本軍、(ほんとうはルーズベルト大統領は知っててわざとパールハーバーで大負けしたのに)リメンバー・パールハーバー、憎っくきジャップをやっつけろ、と続々太平洋を西へと押し寄せてきた連合軍(主に米軍)...この3者のそれぞれの立場から見ていかないと、片手落ちになります。

そして、日本とアメリカがやったことは、勝手によその家に押しかけて大喧嘩をおっ始め、あげくに家は壊すわ、家人も殺したり怪我させたりするわの暴挙に及んだジャイアンとスネオ?のようなものだったんだという事実から、日本人もアメリカ人も、絶対に目をそらしてはならないと思います。というわけで(持ち前の好奇心も多いに作用して)、まったくアメリカ~なセレモニーに、わたしもノコノコ出かけて参りました。こころはやはり、いろんな方面でヒリヒリしましたけど。

ところで下の写真は、アメリカの爆撃機からヤップ島に投下されている爆弾の雨です。この写真を見せられると、たいていのヤップ人は、ひぇ~と息を呑みます。彼らの父祖の地に降り注ぐ爆弾の雨、その真下には彼らの親族が...そう思うと、こころがギューッと縮むのでしょう。
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ちなみに、当時の米軍が空爆作戦を展開するときには、必ず1機は記録係としてカメラマンを乗せて飛んでいたそうです。ですから、ヤップ島への爆撃もたくさんの写真が残っています。1944年3月31日に始まった最初のヤップ島攻撃から1945年8月15日の終戦までの間に、ヤップ島攻撃作戦に出動した米海・陸・空軍&海兵隊の戦闘機のうち、36機が日本軍により撃ち落され、120人の乗員の命が失われました。そのうち110人の遺体はいまだに確認されておらず、MIA(Missing In Action)となっています。

さあ、セレモニーが始まりました。参列者は、上記の主賓に州のエライさん方のほかには、島在住のアメリカ人+アメリカ人観光客ちらほら、わたしを含めてMissing Air Crewのメンバーと付き合いのあるローカル・ツアーガイド数名、(たぶん頭数集めで呼ばれた)海洋訓練校(FMI)の生徒たち、それに、イラクとアフガニスタンで戦死したヤップ島出身兵士の家族らも呼ばれていました。

a0043520_11192426.jpgなぜか3年半ほど前から頻繁に登場するようになった空気銃を持ったオマワリさんの行進で、ミクロネシア連邦旗、アメリカ国旗、ヤップ州旗が入ってきました。雨の中をご苦労さんです。

その後、プログラムにはPresentation of Colors >> National Anthemsとなっていたのですが、わたしたちガイド組は、何するのかな~とボーっと座っていましたら、前方の主賓やエライさん、アメリカ人組が全員起立したのです。それでも後方に隠れるように座っていたわたしたちは、どーしよーか?とお互い顔を見合わせながらも座ったままでいたところ、放送局録音のミクロネシア連邦国歌が流れ始めました。

そうそう、国歌斉唱のときは起立するんだったね~メリケン(アメリカ人)は...とみんなで思い出しながら起立したんですけど、このとき流れた国歌が、なんとカントリーロック・バージョン! どんなに四角い顔して起立していても次第に顔の筋肉がゆるんでいき、最後には歌手と一緒にイェイとシャウトしたくなるようなエンディングで、なかなかの感銘ものでありました。やるじゃない>>ヤップ州放送局(笑)。忌野清志郎の君が代とまではいかなくても、日本の儀式でも、もっと自由にアレンジして楽しく歌えば良いのに^^(そして歌詞も変えたほうが、みんな=国民のノリも良くなりますよ、キリッ)。

さてオマワリさんたち、ヘルキャットの前に旗を立てて、3人が直立不動の姿勢です↓ ↓
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上写真の左手で、このプロジェクトの火付け役となったMissing Air Crewの主催者、Patrick Ranfranzさんが、この日に至るまでの経過説明をしています。彼のおじさんが搭乗するB-24も、1944年6月25日、ニューギニアはアドミラルティ諸島のロスネグロス島から飛びたち、ヤップ島上空で撃ち落されました。10人の搭乗員とともに島の東南側の海に墜落した機体は、いまだに発見されていません。

次のスピーチはHistory Flight, Inc.を主催・経営するMark Noahさん、小型機から大型ジェットまで飛ばせる現役バリバリのパイロットでありながら、日米のどんな戦闘機のカケラでも、見ただけで機種を言い当てることができるすごい人です。太平洋戦争で失われた米軍戦闘員、戦闘機捜しにかけるこの2人の情熱とその偏りのないアプローチは、彼らが純粋な真実の探求者であることを物語っています。

しかしながら、今あなたの国が、アフガニスタンやイラク、世界中のあちこちで起こしている戦争について、本当のところはどう思っているの?と聞いてみたい気持は山々ですが、ミクロネシアはまだ勝てば官軍の地でわたしはなんといっても負け組の出ですし、アメリカは今現在も侵略戦争続行中の言論統制の国ですし、彼らの仕事も米軍の協力抜きではできないわけですから、そんな野暮で失礼な質問はできません。

カソリックの神父さんのお祈りに続いて、州のエライさん、米国大使、米国海軍少将の代理として出席された海軍中佐さんのスピーチがありました。中佐さんは卒なくサラッとお仕事をこなされましたが、前のお2人のお話は・・・・・ 自由と民主主義のために捧げられた彼らの献身によってぇ、ヤップの人々はぁ(悪の枢軸ジャップから)解放されて自由と平等を手に入れることができぃ、以後アメリカと共にぃ、今も世界中のテロリストをやっつけるためにぃ、戦っているのでありますぅ~~~、イラク・アフガニスタンで名誉の戦死を遂げられたあなた方の息子さんたちもぉ、そういう尊い献身をなされたのですぅ・・・・・ 仕方ありませんね...なんといっても、ミクロネシアはまだ勝てば官軍の地ですから。それでも救いは、わたしのまわりのローカル・ガイドたちが、そんなスピーチを真に受けて聞いてる風には見えなかったことです^^
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さてプログラムの最後にあったRendering of Honorsって何するんだろうと思っていると、制服の米海軍中佐さんと私服の退役米空軍パイロットさんが、作法にのっとって米国旗を折りたたみ、コックス少尉とホールディング少尉のご遺族に贈るという儀式だったのでした。

最後に、Missing Air CrewのPatrick Ranfranzさんの名言をふたつ、ご紹介しておきます。これらを解釈するとき、ひとりのゴッドと厳しく契約する社会に住む欧米人の感覚と、いまだに八百万(やおろず)の神さんとゲゲゲの妖怪さんの世界を居心地良く思っている日本人&ヤップ人の感覚では、かなりの違いがあるでしょうけど、それでも何か、ハッとさせるものがありますね:

“A man is not dead until he is forgotten”
忘れ去られない限り人は死なない
(死者はいつもあなたの側に)

“History is Passion”
歴史は情熱だ!


関連記事:
ヤップと戦争
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by suyap | 2010-07-28 21:31 | ヤップと戦争

ヤップ島の戦争(いただいたコメントへ)

ひまじんの日記のひまじんさんから当ブログにコメントをいただいた。お父様が海軍兵士としてヤップ島に配属されておられたのだそうだ。そのお父様から伝え聞いておられた体験談をブログで発表されておられる:
ひまじんの日記:父の戦争体験編
http://himajin321q.seesaa.net/article/110447113.html
ひまじんの日記:父の戦争体験その2 編
http://himajin321q.seesaa.net/article/110477374.html
ヤップ島には1944年2月以来、陸・海軍あわせて約6000人くらいの日本軍兵士が上陸していた。そのうち作戦に応じて飛来した海軍航空隊員や艦船乗組員を除き常駐した海軍人は1500人弱だったようで、人数としては圧倒的に陸軍が多かった。したがって、戦後ヤップに慰問に来られる人々も残っている記録も、陸軍関係が断然多い。だから、ひまじんさんのお父様のような一海軍兵士としての体験談はたいへん貴重なものだ。(下の写真は米国立文書館所蔵の1945年8月28日撮影ヤップ飛行場)
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いま生きているわたしたちにしても、見る立場、場所、環境、得られる情報が違えば、同じ事象を見ても、その受け取り方や印象が全く違ったものになる。それら雑多な「見方/見え方」を、その見る者のバックグランドとともに幅広く多方面にわたって逐一記録しておくことが、歴史を伝えるうえで本来は必要な作業なのだ。ところが7世紀の記紀編纂以来、日本の歴史は時の為政者や編纂者の利益や偏狭な思惑で壮大に書き換え捏造され続けているわけだけど...

そういう思いをベースに、戦後世代でヤップ島にも来られたことのないひまじんさんが、海軍兵士としてヤップ島におられたお父様の話を思い出しながらまとめられた記録-という条件を踏まえながら、少しばかり現地からリアリティに近づけるような考察(あるいは想像)なぞをしてみたいと思う。

以下はひまじんさんに敬意を表してですます調で...

まず本題にとりかかる前に、ヤップ島の戦争について書いた記事を挙げておきます:
太平洋戦争は避けることができた@ヤップ
http://suyap.exblog.jp/4078579/
ヤップの高射砲
http://suyap.exblog.jp/3768298/
ヤップの高射砲-訂正
http://suyap.exblog.jp/3801043/

ひまじんの日記:父の戦争体験編より:
19年の1月に、横浜港の大桟橋からトホホの出撃。
結果的には太平洋上のヤップ島へ向かうんどすけど、敵の潜水艦攻撃を避けるためか、偵察機に行き先を悟られないようにするためか、まっすぐに進まずに蛇が進むようにジグザグに進むんだそうどす。
普通に直進するよりも、はるかに時間をかけて、まずはサイパン島に到着。その後、パラオ方向に向けて、いよいよヤップ島に出発。
ヤップ島に到着、上陸を果たしてから、まずやらされたことは、連日の陣地の建設作業とのこと。


suyap:ヤップ島にはまず最初、1944年(昭和19年)2月10日に海軍第205設営隊(石本中佐以下400名)が到着しています。もしかしたらお父様はその中におられたのかもしれませんね。その数ヶ月前から南洋拓殖会社に委託されて始まっていた軍事施設(主に飛行場など)建設に、いよいよ軍隊が加勢したわけです。働かせられる者(数百人にのぼる朝鮮からの徴用者、ヤップ人)にとっては、この時点からオイ・コラ・ビンタの地獄が始まったようです。

a0043520_1822626.jpgなんでも、先のサイパンの港をあとに出航してから・・・3ヶ月してからサイパンが陥落したとのことどす。
   ~中略~
あんなに勇ましそうな航空部隊が壊滅なんやもん。 


suyap:1944年(昭和19年)5月10日には、零戦、彗星など海軍第22航空戦隊所属の約50機がヤップに配属、翌11日には海軍第46警備隊(田中正道司令以下約1500名)が上陸しています。そして6月15日から、いよいよヤップ島航空戦隊もサイパンの米軍迎撃に出動です。それが、ヤップに無事帰還する機が日ごとに半減し...7月7日、サイパンは陥落しました。(右上の写真は、空から撃たれて飛べなくなった零戦)


ひまじんの日記:父の戦争体験その2 編より:
なにせ、いままで見たこともないような爆撃機が、ヤップ島へ空襲に来るようになったんやそうどす。

suyap:7月25日から28日にかけて、米空母戦艦・巡洋艦・駆逐艦など20隻あまりがヤップ島と取り囲み、艦砲射撃と大型爆撃機B-24の編隊による激しい爆撃が繰り返されたそうです。

a0043520_18333450.jpg父は海軍やったから、海岸近くに配置していたそうなんどす。

海軍の陣地もだいたいわかっておりますけど、少しでもヤップの地名をおっしゃっていましたか?それがわかれば、所属がわかるかもしれません。

そうこうするうちに、陸軍さんの砲弾も底をつき、もはや高射砲も意味をなさなくなったので、陸軍さんの当面のするべき事も無くなってしまったそうどす。

suyap:はあ...高射砲もタマ切れどすか...(あ、いかん、ひまじんさんの口調が移ってしもた)。もしかしたらこれ、陸軍さんの作戦だったかもしれませんね。まだまだ先は長いし、ここで無駄な抵抗してもしゃーないから、タマは今後のために大事にとっておいて、それぞれ安全なところに退避せよって。

a0043520_1844389.jpgこんどは艦載機が低空で毎日、機銃掃射にやって来るようになったそうどす。
物資を運搬する船なんかが、やって来るはずもないわけで、日増しに食料事情が悪化する中で、ヘビやカエルやトカゲや、もう・・・ありとあらゆるものを食べたと言っておりました。 


suyap:8月中もニューギニアから飛来するB-24による「定期便」攻撃は述べ250機にも及んだそうです。そして9月7日から9日にわたって再び激しい艦爆。そのうち、ヤップ島のすぐ近くのユリシー環礁も米軍に取られ、そこから毎日「定期便」の機銃掃射を受けることになったそうです。(写真は日干しにしてあぶるとメザシの味がしたという緑のトカゲ)

a0043520_18543261.jpg海軍の陣地にある対空機関砲も、それなりに活躍もして、目の前で敵の艦載機が墜落することもあったそうどす。

suyap:写真は海軍の十年式十二糎高角砲です。この陣地では爆撃を受けて4名の海軍兵士が亡くなったと聞いています。ヤップの日本軍の攻撃により41機の米軍機が撃墜されています。もちろん乗務員はほとんど死亡か行方不明。一方、日本軍側の戦病死者は、陸軍:250名、海軍:94名となっています。でも、敵方・味方の被害状況を競ったり比べたり...の話って、むなしいですね。戦争には悲惨とむなしさしか残りません。

ヤップなんて戦略的に価値がなかったんやねぇ~。

suyap:運が良かっただけかもしれませんよ。あるいは作戦勝ち?陸軍守備隊が上陸して以来、ものすごい勢いで突貫工事を行って、海岸にバリケードを築き穴を掘ったそうです。それを偵察していた米軍側は、日本軍の人員を大幅に上回って評価していたので、(すでにぺリリューも、サイパンもグアムも取ったので)上陸をあきらめたとか。しかし、この突貫工事のお陰で、ヤップ中の大きな樹木や建築が倒され、人々は海岸の住まいから立ち退かされたわけです。

20年8月15日に終戦となっても、すぐには復員の船が来るわけではのうて、来る日も来る日も窮乏した状態で帰国船が来るのを待っていたそうなんどす。

suyap:米駆逐艦ティルマン(Tillman)艦上で停戦協定調印が行われたのは1945年(昭和20年)9月20日でした。その後、9月末、野戦病院入院者などの重症者から帰国開始が行われたようです。お父様はそのおひとりだったのですね。ヤップでも亡くなられた方の半数以上は「戦病死」、デング熱、アメーバ赤痢、日射病など、それに栄養不良で体力が衰えているのが合わさって症状悪化するものが多かったのかも。お父様がご無事にご帰還されて、ほんとうに良かったですね。

同じヤップ州には、こんな悲惨な戦地もありました:

ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたこと
http://suyap.exblog.jp/6032304/

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ともかく、どういう理屈をこね並べようと、戦争には不正義と悲惨しかな~いというのが、わたしの見解だ。NO MORE WAR!!!

ちょうど良いタイミングで田中宇さんが記事をアップしてくれた:

田中宇の国際ニュース解説:テロ戦争の終わり
http://tanakanews.com/090414GWOT.htm
そもそもテロ戦争とは何だったのか。そして、それを終わらせることは何を意味するのか
まだまだ安心してはおれない。アルカイダというテロ組織は、もとから存在していなかった。米国が、テレビを見ている人々に政府を支持させるため『悪役』を用意するプロパガンダ戦略としてアルカイダを作ったなんてしゃあしゃあと、アルカイダ・アルカイダと米国と一緒になって騒ぎまくった英国の元外相が言ってるってんだから、同じやつ等が今度はアルカイダに代わって地球温暖化を槍玉にあげつらうってのも、眉に唾つけながら見ていかなきゃね。

言葉に踊らされず、騙されず、自分の五感+第六感+頭で真実を見抜き追究し続ける、これしか地球を住み良くする手立てはないし、それが地球の住民でなおかつまわりの生物に瀕死のダメージを与えている1匹のニンゲンとしての、義務なのだーっ>>>>>じぶん。ふう...



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by suyap | 2009-04-14 10:22 | ヤップと戦争

8月15日の舌足らずな独白

a0043520_22572570.jpg先週から、到着してホテルにチェック・インするなり、テレビは映らないんですか?と聞くゲストが多くて、どうしたことかと思ったら、オリンピックのせいだったのですね。ヤップで唯一のテレビ、地上波デジタル放送を客室から受信できるのは、オキーフ・ウォーターフロント・インという小さなホテルだけで、あとのホテルは(1泊200ドル以上もするホテルですら)、テレビはDVD用です(笑)。

a0043520_22583781.jpgわたしの家にはそのテレビ受信機すらないし、忙しくてインターネットでニュースを追う暇もなかったので、北京オリンピックなんて写真さえ見たことなかったけど、今夜は少し時間があったので、カナダ de 日本語の美爾依さんとこに貼ってあったYouTubeで、開会式の様子を2時間もかけてダウンロードしてみた。そして世界人口の6分の1、10億もの人がこれに見入っている光景を想像して、マジでゾッとした。

a0043520_22593151.jpgわたしとしては、どんな旗にも忠誠を誓いたくないし、みんなが一斉に同じ方を向きはじめたら、理由がどうであれ、たったひとりでも反対の方を向いていたい。得たいのしれない「国家」なんかに身を捧げたくないし、それを強要するものを信じない。

誤解していただきたくないが、中国のオリンピックだからわたしがこういう気持を抱いたのではない。みんな同じ顔をして「国の旗」を持ち、整然と「国の歌」を歌う人々の映像を見ながら、果てさて東京オリンピックはどうだっただろうと考えていた。小さいときに開会式をテレビで見た記憶はあるが、細部までは思い出せない。今回のそれと似たようなものではなかったか?

a0043520_2302014.jpg19世紀にオリンピックが復活(あるいは捏造)された背景は、「国家」の名による殺戮と侵略(=戦争)の歴史に重なって見える。

みんなで同じ旗を見たくない。
みんなで同じ歌を歌いたくない。

みんな違っていたほうが良い。
それぞれが、好きな方を向いていて良い。

そんな個々のニンゲン同士で作る小さな輪が、それぞれで自己完結していれば良い。
そして、お互いの存在と存続を尊重しあっていけば良い。

a0043520_2311018.jpgみんなで同じ旗を見た結果のひとつが、これだ。
太平洋戦争は避けることができた@ヤップ
みんなで同じ歌を歌った結果のひとつが、これだ。
太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)
「国家」を作るものの陰にオリンピックあり。
「国家」を作るものの陰に戦争あり。

そして、どんな「国家」も、いずれいつかは滅びる運命にある。
そんな「国家」に騙されず、熱狂せず、踊らされず、自分の目の前にある生活と環境を大切に、しっかり地に足をつけて生きていきたい。

(写真は上から、マングローブ遠景、ゼロ戦1、ゼロ戦2、一式陸攻、九七艦攻)



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by suyap | 2008-08-15 21:45 | ヤップと戦争

海中の戦争遺物(その2)

ヤップ某所の水底に眠る、この物体はいったい何だろう?
a0043520_235954.jpg

長さ2メートル弱、直径約30センチ、魚雷にしては短かすぎるけれど、形はまさに推進機を取り除いた魚雷形だ。武器弾薬のことには全く疎いわたしだが、太平洋戦争中に米軍戦闘機から投下された爆弾が、不発のまま沈んでいるものではないかと思っている。

a0043520_003436.jpg気になって、砲弾類の写真をネットで検索してみてもなかなか出てこない。もしこれが不発弾だったとして、水深30mの海底に64年以上も眠り続けた爆弾が、ある日突然、自然に爆発するようなことはあり得るのだろうか?ヤップにも相当量の爆弾が投下されているはずだから、まだ他にも海中不発弾があってもおかしくない。この物体の正体を推測できる方がおられたら、ぜひご一報ください。


a0043520_12111114.jpg水路の砂泥底に、カイメン類をたくさんまといながら、訪れるものもなくポツンと横たわる武器。すぐ側に、それをじっと見守っているポーキュパイン・レイ(Thorny ray)Urogymnus africanus)がいた。このまま安全に朽ち果ててくれるものなら、そっとしておきたい。


海中の戦争遺物(その1)



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by suyap | 2008-07-18 23:43 | ヤップと戦争

海中の戦争遺物(その1)

a0043520_19181199.jpgSeaForest Weblogさん戦争の遺物(1)という記事に触発されて、ヤップの水中に沈んでいる過去の戦争の様々な残骸を、これからいくつかのシリーズで取り上げることにした。

道路を造ったり家を建てたりすることのない水中は、場所や状況によっては、こういった遺物にとってはかなり良い保存場所だ。レジャー・ダイバーが頻繁に潜る場所にも、実はかなりのものが転がっている。それらはパーツになったりサンゴで覆われたりしているから、言われないと気がつかない場合が多いが、よく見ると、明らかに自然由来のものでないことがわかる。左上の写真の物体も、今となっては物が何だったか知りようもないが、船の一部分である可能性は高い。

a0043520_19185732.jpg

その近くに↑こんなものがある。ちょうど500ml入りビール缶くらいの直径と長さだが、持つと硬くて重量感がある。これは薬莢といって、サイズからすると高射砲かなにかの弾丸の入っていたシェルだという(参考:アメリカが落とした焼夷弾の薬莢))。このあたりには薬莢がたくさん転がっているのだが、まさかここまで高射砲を持ってきて撃ったとも思えないし、軍艦や地上から撃った弾の薬莢を、ここにまとめて捨てたとも思えないし、このような散らばり方は不思議だ。

a0043520_19193435.jpgサンゴにまわりを囲まれて、こんな人殺し道具の一部が野ざらし(海さらし)になっているのも、あまりダイバーの入っていないヤップならではかもしれない。戦跡泥棒も心配なので、これがどこにあるか、場所の詳細を書くことは差し控える。

戦争は多くの人の命を奪うだけでなく、膨大な環境破壊と資源の浪費を引き起こし、人の心を引き裂き国家間の関係をいびつにする。そんな戦争をあえてしたがる者たちは、なんらかの利権でつながっている(つまり戦争で儲かる)奴らとみて良い。そして、それらに乗せられるのが無知で無力で「善良な」一般大衆だ。昨今の日韓・日朝・韓朝の動きに関連して、反戦な家づくりさんがこんな記事を書いている:
日韓合作 竹島劇場?
おもしろがって見ている余裕はない。
このわずかに残された時間で、時代が大転換していること、ボヤボヤしていると21世紀の2.26事件や血盟団事件を許してしまうこと。
最悪の事態は、かつてナチスが行った、国会放火-非常事態宣言という事態もありうること。
この緊迫した情勢を、理解し、伝えて行かなくてはならない。
そのナチスの高官へルマン・ゲーリングが、戦後ニュルンベルグ裁判で陳述したとされる次のフレーズを、他人事とのん気に捉えるわけにはいかない。現在の社会の動きは昭和初期(1930年前後)のそれとあまりにも似ている。学歴や年齢に関係なく、今この時代に政治や社会の動きに無知・無関心でいることは、戦争屋と等しく人類と地球に対する大罪である。では、ゲーリングの言葉をどうぞ:
「……もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰ってくるぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じことです。政策を決めるのはその国の指導者です。
『そして国民はつねに指導者のいいなりになるように仕向けられます。……反対の声があろうがなかろうが、人々を政治指導者の望むようにするのは簡単です。「国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです」そして国を更なる危険にさらす。このやりかたはどんな国でも有効ですよ。』



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by suyap | 2008-07-13 23:30 | ヤップと戦争

戦争の落し物

a0043520_2140367.jpgヤップには今でも太平洋戦争の残骸がたくさん残っているけど、左の写真もそのひとつ。海の中に設置してあった機雷(正式には機械水雷というらしい)のアンカーだったという。

実はダイバーが潜る水域にも、こういうのがたくさん転がっている。まわりにサンゴがついているけど、なんだか人工構造物っぽいなーと思っていたら、あるとき、それらを設置したという元日本海軍の兵隊さんたちに出会う機会があり、それらが機雷のアンカーであることが判明した。ヤップの主だった水路、米軍上陸用舟艇が乗り越えられそうなリーフの外に、100個以上も設置したそうだ。機雷については、こちらに図解が出ている:
http://ww1.m78.com/topix-2/minetorpedo.html
じゃあ、このアンカーでつながれて、中層をプカプカ浮いていた爆弾部分はどうなったのかというと、敗戦後、翌年2月まで居残って、米軍と武器や爆弾の処理を手伝っていた元兵隊さんたちに聞くと、だいたい処理はしたけど、わかんなくなったのもあったそうだ。つい先日も、コロニアにつづくウォネダイ・チャネルで機雷が見つかって、米軍の爆発物処理隊が来て爆破していった。海底で砂に埋もれてサンゴがついて、今ではまったく機雷には見えなくなってしまったものもあるだろうと思う。

ところで、海上自衛隊の機雷掃海技術は世界でもトップクラスだという。なんでそうなっちゃったかというと、太平洋戦争後、日本のまわりには、日本軍が設置した係維機雷(ヤップのと同じアンカーで繋いであるもの)が約5万5千個、米軍の感応機雷(戦闘機から投下されたもの)が約1万1千個もあって、そのすべての処理を元海軍の人たちでやったのだそうだ。国際条約では、機雷の処理は設置した国があたるとされているにもかかわらず、米軍の投下した機雷の処理まで日本が負わされた。その結果、7年間で79人もの犠牲者を出しながら。機雷の処理はそれほど危険を伴うものらしい。
機雷掃海(航路啓開)部隊
機雷との戦い-海上自衛隊と掃海任務(1)
ヤップでは、機雷だけでなく、戦争中に米軍が投下した爆弾の不発弾が、いまでもときどき爆発する。それらは地中に埋もれてどこにあるかわからないので、焼畑で作付けするヤムイモの季節になると、うっかり不発弾の近くで火を焚いて突然爆発-ということが起きやすい。うちのG嬢のおじさんも経験者だ。幸い、畑に火をつけたあと、ちょっと用事ができて近くの家に戻っていたので、けが人は出なかったらしい。



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by suyap | 2008-05-31 21:18 | ヤップと戦争