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ミクロネシアの小さな島・ヤップより

suyap.exblog.jp

カテゴリ:ヤップの近代史( 13 )

ヤップ語の表記

ヤップ島の巨大開発に反対するオンライン署名にご協力ありがとうございます。この署名はヤップ州の知事さんあてになっています。世界中から、こんなに注目されてるんだよ、ってことを示すことが大事と考えています。ひきつづき、よろしく!

Say NO to Massive Tourism Investment; Say NO to Land-grabs!

a0043520_725945.jpgところで、こうして外資によるヤップの大型開発反対運動に加わっていると、いままでお付き合いのなかった方々の村のおっちゃん、おばあちゃんたちとたくさん知り合いになれて、わたしにとってもそれは大きな収穫なのだけど、ときに思わぬ依頼を受けることもある。

ある日、ミーティングが終わったあと、Tさんがわたしに話しかけてきた。「suyap、あんたなら、これ読めるだろ?」

見ると、カタカナばかりで書かれた手紙のようだ。しかし...文字は読めてもチンプンカンプン。「Tさん、これ、どなたが書いたものですか?」

「母が遺したものなんだけど、手紙か...もしかしたら(ローカル)薬の処方が書いてあるのかもしれん」と、70がらみのTさん。彼のお母さんなら、生きておられたら90代、バリバリの日本語教育世代だ。しかし、ほぼすべての子音が母音をともなう日本語表記法(カナ)で、唇歯音、 無声破裂音、破擦音、無声・有声摩擦音だらけのヤップ語を表すのはたいへんなことだ...というか、無理。ところどころ拾える単語はあっても、ほぼワケワカメ。

a0043520_7252380.jpgG嬢にも応援をたのんで、2人であ~でもないこ~でもないとやっていたら、チョメさんが「おまえら、中国語しゃべっとんか?」だって(笑)。そんなときG嬢が、「これ、もしかして、左から読むんじゃない?」

なあるほど...
ソロクヤランゴグメマナンガクファラ、ウモグネギ...

「ソロクはSiroeq(シロゥッ=すみません)だよ、ファラはfaa ra(接辞詞)、カルマガリはKa rin m'magaer(カリンマガール=どうもありがとう)だよ、きっと」とG嬢。わたしよりも解読に熱中している(笑)。

「わたしの知らない単語もあるかもしれないから、うちに持ってってお母さんに聞いてくる...」

よく見てみると、LAとかBULとかTHとか、アルファベットらしきものも見られ、おそらくカタカナでは表現しきれないものがアルファベットで書いてあるのだろう。それに全体として、書き手なりに統一した表記のルールのようなものがあるようだ。このようなカタカナによるヤップ語の文書化が、書き手の世代間では普通に行われていたものかどうか、残念ながら知る機会がなかった。

19世紀末にはカソリック教会によってヤップ語の聖書がアルファベットで作られており、戦後になってからはさらに大々的にアルファベット表記が普及したので、日本の統治時代に固有名詞など一部が(日本人によって?)カタカナ表記された以外に、こんな長文のヤップ語カナ表記を見たことがない。

まだまだ解読への道のりは長いけれど、G嬢の助けを得て、なんとか意味がつかめるまでになりたいものだ。ヤップ語表記法については、まだ書きたいことがあるけれど、本日はこの辺で。


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by suyap | 2013-04-01 09:20 | ヤップの近代史

制服...

どお?ボクの格子縞の制服、なかなかイケてるでしょ?
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と自慢げなお顔の、ミクロネシア固有種のギンポ、コミカル・ブレニーくん。いつも忙しそうにちょこまかサンゴの浅瀬を走りまわっている。

いやいや、いま制服を語るなら...やっぱり↓この人たち↓を無視できないでしょ?:



ところで制服といえば...ずーっと長い間、不思議だったことが、ようやくわかってきた。

下の写真はヤップ公学校(日本統治時代、島民子弟を教育していた学校)の卒業記念撮影だが、前列に整列した先生たちが、左端の袴姿の女先生と、右端の島民の助訓(アシスタント)以外の4人は、みんなサーベルを持って写っている!どうして学校の先生がサーベルを?と思っていたら、
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当時のヤップで子供時代を過ごした方々から、最近その疑問への答をいただけた(個人収蔵の写真なのでお顔は伏せました)

「南洋群島」と呼ばれていたミクロネシアの公学校や小学校(日本人の子弟が通った学校)に先生として赴任していた人たちは、南洋庁に判任官(明治憲法下の下級官吏の等級)として採用されており、礼服にサーベル佩用(はいよう)と決まっていたのだそうだ(南洋群島在勤文官礼服代用服制-大正15年勅令第311号)。
...サーベルは実戦的な武器としてよりも国家権力・権威の象徴という意味合いが強かった(Wiki)...
南洋庁に勤務すると外地(現地)勤務手当てもつき、日本の植民地経営の担い手として給料ほか待遇も良かったらしい。彼らがヤップで住んでいた官舎もたいへんに立派なものだった。良い仕事をした人もたくさんおられたが、階級差への異常なこだわりと変なプライドにとりつかれた勘違いなヒト(+家族)も多かったらしい。そんな気風、今の「官僚」サン、とくに在外公館吏員サンもかなり引きずっておられませんか?


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by suyap | 2012-02-13 00:36 | ヤップの近代史

昔の絵葉書より

戦前、日本統治時代に出された絵葉書が、「昔・南洋群島・今」(南洋群島協会1985年第2版)に所蔵されている。そのうちヤップ島とヤップ州離島と思える2点は、いずれも布施信太郎作だ。当時の人々の暮らしが暖かいタッチで描かれている。

ヤップ島のスケッチより:
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布施信太郎の年譜によると、1935年(昭和10年)に「南洋諸島へ1年余旅行」とあるので、上の画はそのときのスケッチを元に描かれたものだろう。古き良き時代のヤップの、典型的な若夫婦の「家」とその家庭風景。奥に見える立派な家は、男の両親の母屋だろうか。当時からすでに平板木材を使った高床式の簡易ハウスが建てられていたのにはびっくり。今見られるものより窓が広くとってあり、家の中も明るくて頑丈そうだ。考えてみたら完全にローカル素材オンリーに徹しない限り、今の家づくりはアメリカ式の4フィート X 8フィートという規格に縛られてしまうせいかもしれない。

ちなみにティーンエイジャーのヤップ男子は、今でもこういう簡易ハウスを同世代のキョウダイや友人の力を借りて自力で「建て」ます。まあ...いつまでも親の家でごろごろしてて独立しない/できない男子も増えてはいるけどね(笑)。

パンの實を焼く:
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同じく作者の年譜によると、同様の名前の画が1940年の第3回壁画会展に出展されている。女たちの衣装からヤップ州の離島、あるいはヤップ州離島の住民が多く住みついたサイパン島の風景かと思われる。右端の子がブラウスを着ているところからするとサイパン島である可能性も高い。それであっても彼女らはチャモロの女たちではなく、今はヤップ州となっている離島に出自をもつカロリニアンの女たちである。

現在でもヤップ州離島では同じような風景が続いている。そしてわたしがこの画を見てウ~ンと思ったのは、右下に転がっている蛮刀!今とまんま同じ形...もしかして同じメーカー?(笑) 蛮刀は今も小さい子供のうちから使いこなす島暮らしの生活必需品、わたしだって大小そろえて持ってます。

こうしてみると、70年の月日をもってしても変わらないものは変わっていない暮らしと...たかが2~3世代のうちに切り捨て変わり果ててしまった現代ニホンの暮らし...どっちが安心で豊かなんだろう...って思いませんこと?


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by suyap | 2011-11-02 23:43 | ヤップの近代史

セント・ジョセフ教会の壁画

5月は貿易風が吹いたり弱まったりする季節の変わり目、雨も適度に降って、なかなか趣のある季節だ。ガギル地区はワニヤン村にあるセント・ジョセフ教会は、やや多めの雲が流れる青空の下、きれいに刈られた芝生の中にすっくと建っていた。
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ヤップで初めてキリスト教の布教が始まったのは1886年のこと。その前年にドイツと統治権を争った末、ローマ法王の決済によってスペインに軍配があがり、同国はヤップ統治のための軍隊とカプチン派の神父らの一団を送り込んだ。

スペイン人の神父らにとってはいろいろと悪戦苦闘の布教活動だったろうが、ヤップの人々にとってはいらぬお世話で余計な迷惑、とくにヤップ島の「人」と「神」の橋渡し役を務めてきた神官たちにとっては、彼らがもたらした異郷の「神」は、ヤップの伝統システムを犯すとんでもないシロモノであった。かくしてカソリック「教会」とヤップ「神官」のたたかいが始まった。しかし軍隊と共に居座るスペイン当局のバックアップを受けて、彼らは数年のうちに、コロニア、南部のグロールに続いて、この地にも初めて教会が置かれたようだ。
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米西戦争に敗れたスペインは、1899年グアムをのぞくミクロネシアの統治権をドイツに売り渡した。それに伴い、ヤップのカソリックの布教活動もスペインからドイツのカプチン派へと代わった。その後の時間をグルルンパと端折り、1914年、第一次世界大戦の勃発と共に日本軍がミクロネシアを占領、敗戦国ドイツ・カプチン派の神父らは追い出され、1921年、再びスペインから今度はイエズス会の神父らが送りこまれた。

彼らの記録によると、1920年代から1930年代初期のころまで、イエズス会カソリック教会と日本の統治当局との関係はうまくいっていたようだ。神父が日本当局のレセプションに招待されたり、たまに教会のミサにやってくるヤップ支局長がいたという。またヤップ人のカソリックへの改宗も、この時期、めざましく増加した。スペイン、ドイツ統治時代にあれほど苦労してはかどらなかった改宗が、なぜ日本統治時代に進んだのか、とっても不思議な気がする。「外国」の統治者が入れ替わり立ち替わり入ってきて、それとともに外からの物資の流入や、ヤップ人自身の外との接触が増えたせいか、それとも「宗教」に鷹揚だった日本当局のせいか...?

やがて1930年代後半も入り、日本が日中戦争のドツボにはまっていく中で、カソリック教会と日本当局の中も剣呑になっていった。ヤップに南洋神社が建立されたのが1933年だから、そのころから既に兆しはあったかもしれない。このセント・ジョセフ教会にいたベルナンド神父は、他の2人の聖職者と(アメリカに雇われた)フィリピン人の気象観測者共に、1944年7月パラオに送られ、同年9月、スパイ容疑で処刑された。

※1944年8月、ワニヤン村近くの浜で、「教会を捜していた」3人の米海兵隊員潜水夫が捕獲された。米統治下のフィリピン人、スペイン人イエズス会神父らが、日本にとって「敵国」の連絡員を働いたとしても不思議ではない。かといって裁判もなく「処刑」するのは、今の米国がオサマ・ビン・ラデンに対してとった行為と同じで、全く申し開きの余地なし。両方とも「カルト」だから同じような行動とるのかもね。

第二次世界大戦後の米国統治下、ミクロネシアのカソリック教会はニューヨークのイエズス会が担当することとなり、ヤップでもアメリカ人神父らを迎えて、布教はより大きく進展した。今では人口の約8割が(な~んちゃって)カソリックとなっている。それと同時に、戦後を境に、ヤップの神官が「消え」た。あるものは跡継ぎを育てず、あるものは戦後まもなく、不思議な死を遂げた(誰に消されたか近親者のみ知っている)。

(後記)
「セント・ジョセフ教会の壁画」というタイトルを打ちながら、なんと記事はヤップのカソリック布教の歴史...で、壁画のほうですが、ヤップ人のキリストと使徒を描くのは、このセント・ジョセフの伝統のようです。先代の壁画は2004年の台風で吹っ飛び、これは2代目、8人の使徒が石貨や離島の女が織った腰巻などを、キリストに献上しています。


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by suyap | 2011-05-11 09:50 | ヤップの近代史

タラング島の歴史

スノーケリングやダイビング、それにビーチ・ピクニックなど、このブログでもときどき取り上げるタラング島。コロニアのすぐ近くにあるこの小島の歴史を、ちょっこっとと書きとめておく。

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この島は、下に述べるような歴史のせいで地権者がはっきりせず(or たくさんいすぎて)、太平洋戦争後、州政府が「史跡」に指定しているわりには、実質ほとんど管理されない状態で今日まできている。コロニアからボートで数分なので、ジモッチーのピクニックにもよく利用され、ひどくゴミが散らかっているときもあったが、現在ではFMI(ミクロネシア連邦の海員学校のようなもの)の生徒がときどき清掃や整備に来てくれるお陰で、ずいぶんと小奇麗になった。

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海岸からちょっと中に入ると、ほとんど手の入ってない潅木に被われ、大きなマンゴーの木が林立する半ジャングル状態となる。一方、海岸はほとんどマングローブに被われており、小さな入り江の泥地は、オイランハゼやテッポウウオ、ミナミトビハゼなどの素敵な観察地である。また、それに続く藻場やサンゴ場では、内湾スノーケリングやダイビングを楽しめる。

a0043520_144431.jpgそんなタラング島の奥の方へ、多いかぶさる潅木の枝を払いながら数分進むと、突如現れる赤レンガの廃墟!そう、これは19世紀の末、ヤップをひとつの拠点として、香港~西太平洋の島々で、30年に渡って手広くナマコとコプラの商売をやったデービッド・ディーン・オキーフ(David Dean O'Keefe)の屋敷跡なのだ。

オキーフがアイルランドからアメリカへ渡った移民だったせいもあり、太平洋戦争後にミクロネシアをアメリカが統治するようになってから、彼を題材にした小説や映画がアメリカで作られ話題になった。そのせいもあって、オキーフについては、いまだに小説や映画の「作り話」が「実話」として一人歩きしている感がある。

たいていのガイドブックでは、オキーフは乗っていた船が難破してヤップ人に助けられたことがヤップで商売を始めるきっかけだった云々とか、以後彼はこの島でキングとなり、タラング島を「所有した」云々とか、書いているけれど、それらの話には、アメリカ+西洋白人好みの「南の土人の島で王様になる成功伝」としての「作り話」が多分に入りこんでおり、真実とはほど遠い。それに加えてオキーフ自身も、生前そういう「伝説」の成立に加担したフシもある。

そんなわけで、リアルなオキーフ像はなかなか表に出てこないのだが、オキーフの実像にかなり迫る書き物としては、出来る限りの現存する資料を基に書かれた、ミクロネシア・ゼミナールのFrancis X. Hezel神父のものが、かなり信頼できると思う:

MicSem Articles:The Man Who Was Reputed to be King: David Dean O'Keefe
http://www.micsem.org/pubs/articles/historical/frames/O%27Keefefr.htm

ちょっと長いですが、興味のある方は読んでみてください。現在のWikiの記述は全くデタラメですからご用心!

↓ジャングルの中あちこち↓に、こういう赤レンガの残骸が見つかる。このレンガはヤップ人のカマドを作るのに重宝されていて、長年にわたって、かなりの量が持って行かれちゃってるけど...

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19世紀に太平洋を渡り歩いた白人商売人の中でも、オキーフはずば抜けてスケールの大きい男だったことは確かだ。1871年に幼い娘と妻を残したままアメリカを出奔したオキーフは、ヤップ島のみならず、マピア(現インドネシア領赤道直下にある小島)、ソンソロール(パラオ共和国の南西にある環礁)にもコプラ・ナマコ交易の基地を持ち、マピア在住の白人商人とナウル人女性の間に出来た娘をマピアに、その娘のオバ(ナウル人)をヤップ島に置き、それぞれとの間に子をなしながら、自分の交易基地の管理や子育てをまかせていた。両方の「妻」との間に出来た娘たちには、香港で教育を受けさせたという。西太平洋の島々と中国・東南アジアを結ぶ交通は、今のわたしたちには想像するのが難しいが、当時としてはわりと普通にあったのだろう。

a0043520_1494672.jpgそんな生活を約30年送ったあと、1901年5月、2人の息子たちとヤップ人クルーを乗せた自分の船で、香港からヤップに向けて出航したオキーフは、そのまま戻って来なかった。彼の消息が消えてから、アメリカ、ヤップとマピアの家族の間では、その遺産をめぐっていろいろあったようだ。

ヤップにいたオキーフのナウル人妻デリブは、1926年に亡くなるまでタラング島に暮らし、その後も娘のユージニを中心にオキーフの家族が住み続けたが、1937年、日本の南洋庁政府によって立ち退きを命じられた。その経緯や根拠が何だったのだろうか。1937年(昭和12年)というと、日本は満州での戦争を拡大し、欧米列強による日本への経済封鎖が始まりかけていた年である。

↓このコンクリート製の天水貯蔵タンク↓は、オキーフ時代のものと思われる。今では様々な種類の蚊の幼虫(ボーフラ)の培養池として活躍中(笑)。このタンクのお陰で、タラング島は蚊の研究者たちの間ではサンプル採取の適地として人気だけれど、ちょっとでもジャングルに入ると、日中でも蚊の総攻撃にあうから、それが気になる人は虫除け対策を怠れません!

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1937年にオキーフの家族がタラング島から立ち退いた後、この島は南洋拓殖会社によって、ヤップ州離島のファイスから採取した、リン鉱石の集積地として使われたという。今での島のあちこちにセメント袋がそのまま水気を吸って固まったものが大量に転がっているのは、その当時のものと思われる(↓写真右)。

今でもボートからの上下船に利用する桟橋の残骸や立派な係留ビットも、日本時代のものかもしれない(↓写真左)。この島に鉱石集積地があったのを察知していた米軍は、1944年以来、激しい空爆を行った。オキーフの家が破壊されたのは、その空爆によるものである。

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1937年以降、南洋拓殖会社によるタラング島の使われ方がどういうものであったか、ほとんど資料が残っていないが、島内に数個転がっているトロッコの残骸も、もしかしたら当時に置かれたものかもしれない。

以前は草むらの中に人知れず転がっていたのだが、最近、島に行って驚いた。

a0043520_146556.jpgなんとトロッコの頑丈な鉄製フレームが、BBQの炉の網置き台となっていたのだ(オバサンのお尻は無視して、緑の矢印の先にトロッコの残骸があります)。

FMIの生徒たちがタラング島を整備してくれるのはありがたいが、引率の教師も含めてこういう歴史的遺物のことは全く知らないから、こういうことが起きる。

a0043520_1471834.jpgしかしそれを見て、わたしの方から何も言うことはできない。だってオキーフの廃墟も含めて、この島を勝手に占拠して色んなものを構築し、それを壊し置き去りにしたのは、みんな力ずくで入ってきた「余所者」だったのだから。

しかも、主にアメリカ人の後押しで「史跡」に指定はされたが、ヤップ州が率先して動いたことは今までない。同じくアメリカ・サイドが動いて多少の金や予算が確保できたときだけ、こういう構築物を作ってみたり掃除が入ったりと、過去にも繰り返しいるが、その金が切れるとまたやりっぱなし...というパターンを、もうずっと長いこと続けている。

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こうなる理由のひとつに、オキーフ以来、この島がどこ(誰)に帰属するのか、ハッキリしなくなっている、あるいは未だに係争地である面があり、政府としては手が出しにくいということもあるかもしれない。

なにはともあれ、歴史遺物の保存も大事かもしれないけれど、まずこの島にあまり人の手が入らないように、今のまま自然のままに、陸の植生や海の状態が維持されることを、わたしとしてはもっとも願っている。


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by suyap | 2010-12-22 14:17 | ヤップの近代史

ジャーマン・ブリックス

a0043520_16132323.jpgボートの船底掃除から帰ってきたPが、桟橋でナイフを研いでいた。それにしてもずいぶんデカイ砥石だなあと何気に注意してみると... あれっ、この砥石、見覚えがあるぞ!

わたし:P、この砥石、どこで手に入れたの?

P:ああ、船底掃除に行ったT島の海の中にたくさん落ちてるさ。

ひゃ~、やっぱり...

a0043520_16141375.jpgこれは砥石じゃなくて、19世紀の末から20世紀初めごろにヤップに持ち込まれた、由緒正しいドイツのレンガなのだ。左の写真は、現ヤップ州庁。建物が乗っかってる土台はこのレンガで築かれている。

Pが海中でレンガを拾った場所である小島(T島)にも、そのころの建物の廃墟がある。太平洋戦争中の爆撃で破壊されたその建物のドイツ製レンガ(ジャーマン・ブリックス)は、今ではヤップのあちこちで竈用に重宝されたり、このように砥石になったりしているだろう。現在は無人島のその島へピクニックに行くローカル・ファミリーも多いので、そういった折にでも島の廃墟を探検した子供たちが、レンガを海へ投げて遊んでいるのかもしれない。州でちゃんと管理できれば、立派な歴史的遺構として観光場所になるのに...

a0043520_1615143.jpgヤップを訪れるドイツ人は、これらのレンガを見て誇らしく思うらしい。なんでもドイツのレンガは吸水率が1%と低く(DIN:ドイツ規格)、水や汚れを受けにくく丈夫だという。

そもそもレンガとは、土(泥)を高温(575度以上)で焼いて化学的変化を起こし全くちがう物質にしたもの。人類がレンガを使うようになって、5000年以上もの歴史があるらしい。時間が経過しても強度の劣化はほとんど無く、時間と共に味わいが出るといわれている。いまどきのセメントのブロックとは、見た目もも強度も比べ物にならないよね。

それを...砥石ですか...(ため息)。



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by suyap | 2009-04-18 22:37 | ヤップの近代史

たがれん橋今昔

4つの島の塊がひとつのサンゴ礁で囲まれているヤップ島の真ん中を、南北にとおる細く浅い水路がある。ヤップ語のアルファベット表記ではTagreengだから、カタカナで書くとタガレンあるいはタグレン、ガやグにはあまりアクセントを置かないで、どっちつかずの発音をすると近くなる。

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上が現在の水路。上を通る橋は、1992年に道路が舗装されたとき架け替えられた。コロニアから島の北や西方面に水路を行くときは必ず通る場所で、ミル・チャネルへのダイビングへの行き帰りにも、マングローブの間を抜けて通過する。

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上の写真は、ほぼ同じ位置から約70年前に撮られたもの。日本統治時代に架けられた初代の橋が見える。当時のヤップには自動車は数台しかなかったという。初めての自動車がヤップに来たのは、この橋が完成する数年前だそうだ。(写真は天野商店のアルバムより)

初代の橋は64年前太平洋戦争中に爆撃で破壊され、戦後に上陸してきた米軍によって造られた2代目の橋を経て、今から20年前の道路舗装工事のとき現在の橋に架け替えられた。

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この橋の袂に、ひとつの石貨が飾ってある。そして、よく表面を見ると、たがれんと右から左へ読める。

この石貨は1代目の橋が破壊されたあと、長い間土の中に埋もれたままになっていたものを、つい数年前に掘り起こして水路に飾ってくれたものだ。

ヤップ人の大事にしている石貨にこんな彫り物をするなんて、いくら日本統治下とはいえ、ヤップ人としてはとても歓迎できることではなかっただろう。それを今は「観光のため」と称して展示しているわけだけど、石貨のうえに書かれたひらかなを発見して単純に驚いたり喜んだりしている日本人ツーリストを見ると、複雑な思いにとらわれるのだった。


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by suyap | 2009-02-14 22:25 | ヤップの近代史

ナンバープレートの変遷

a0043520_7385494.jpgある土産物屋で、ヤップの古いナンバープレートを売っていた。珍しいので記念に写真だけゲット。

右は信託統治領時代の1972年もの。まだミクロネシア連邦ができる前で、マリアナ諸島、パラオ、ヤップ、チューク、ポンペイ、マーシャルを代表した☆が6つ(コスラエはポンペイに入っていたらしい)。そして、ナンバーは3桁!一説によると、百桁の1は仮で、実際の車の数は100台以下だったという。これには公用車は含まれないから、それもありえる話だ。

a0043520_7393324.jpgこちらは80年代後半、ミクロネシア連邦として独立直後くらいのものだと思う。ナンバーは4桁になった。左にはスティッカー式のロゴが入っていたらしいが、はがれている。

その次に出たヤップの石貨のロゴ入りナンバープレートは、90年代初めから1994年頃まで使われていたと記憶しているが、使用済みプレートは大人気でもう警察にも残っていないらしい。


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by suyap | 2008-04-16 23:39 | ヤップの近代史

ヤップと昭和史を生きた人々

a0043520_22464329.jpg70年以上の年月を隔てて、ヤップ小学校の元同級生が今日、偶然、再会する機会に遭遇した。お2人(男性)とも1926年生まれの満80歳だ。

一緒に机を並べたのは小学校の1~2年生の間だけというのに、お互い積もる話が尽きない。1926年は大正最後の年で昭和元年でもある。お2人の人生は、そのまま昭和史に重なり、ニホンが太平洋戦争に突入していった時期が、そのまま彼らの学校生活時代であり、戦後の悲惨から這い上がって経済的安定を獲得する過程が、彼らの青春・壮年時代であった。戦後産まれのわたしや多くの人が知りようもない時代の感情や思考などが、お2人の話からポンポン飛び出したので、それらを忘れてしまう前に書きとめておきたい。きな臭い動きの激しくなった昨今だからこそ、それは貴重な情報であると思う。

##写真は上下とも天野代三郎商店発行「南洋ヤップ島コロニー」掲載のもの。「ヤップ公学校(1928)」(上)、「公学校の授業の様子」(下) (「公学校」とは島民の行く学校のことで当時ヤップに3校あり、日本人子弟の学校は「小学校」と呼ばれコロニアに1校あった)

a0043520_22491096.jpgお2人を仮にAさん、Bさんと呼ぶことにする。お2人がヤップ小学校に入学したのは1932(昭和7)年、クラスメートは8人だった。この年の5月15日、一部海軍将校と右翼によって当時の首相・犬養毅が殺害され(515事件)、以後政党内閣の時代は終わり、次第に軍部の発言力が強くなっていった。また前年から始まった日本軍部の中国侵攻は、その後太平洋戦争の終わるまで「15年戦争」の泥沼にはまっていく。

Aさんは、その後1937(昭和12)年までヤップに滞在し、12歳で単身ニホンに送り返されて、旧制中学を経て陸軍幼年学校に入学、陸軍士官学校2年のときに終戦を迎えた。一方Bさんは1935年にご家族と共にニホンに帰国された。

Aさんをニホンに送ったあと、Aさんのお父様はチューク(当時のトラック)環礁に転勤になり、ご両親と幼い弟妹はヤップを離れてチュークに移っていかれた。一方、陸軍幼年学校生として立派な「軍国少年」に成長したAさんは、卒業を控えて士官学校の「兵科」専攻の時期を迎えた。

Aさん: 「あの当時はね、兵科を専攻するのに『航空科』を志願しないと男じゃない、という雰囲気があってね。もちろん僕も『航空科』を第一志望したんだ。でもね、内心、気が気じゃなかったんだけどね」




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by suyap | 2006-10-12 23:44 | ヤップの近代史

ヤップ州政庁

このブログでは、その日のお天気のこともできるだけ書くことにしているのだけど、こう曇や雨の日が続くと真実を書くのがつらくなる。そう、今日も曇りと雨が半々の不安定なお天気だった。なんだか、今年に入ってから曇りベースの日のほうが晴れた日より多いのではないかという気がする。赤道から北緯10度あたりまで、いつも雲がかかっている感じなのだ。お天気の悪い日は、貿易風はあまり強く吹かない。それと渇水の心配がないのは良いことだ。

a0043520_23234465.jpg今日の写真はヤップ州政庁。日本でいうと都道府県庁みたいなものだ。実はうちの店のすぐ向かいにあるのだが、午後4時半の役所や会社の退け時を過ぎると、このとおり人っ子ひとりいなくなる。いまヤップには車がどんどん増えているので、平日の昼間は、このあたりも車だらけになるのだけれど。

a0043520_23243218.jpg実は、この建物が建っている土台にご注目いただきたい。これは19世紀後半にスペインがドイツと争ってミクロネシアの領有を主張したとき、当時の蒸気船でたくさんのレンガや石を持ってきて建物の土台にした名残なのだ。太平洋戦争中の爆撃にも難をのがれ、いまでもしっかり土台をやっている。


a0043520_232581.jpgご覧のように、表面をセメントと石で補強してあるが、中身は正真正銘の赤レンガ。それも、とっても目が細かくて品質が良さそう。スペイン時代の建物の跡は他の場所にもあるけれど、ジャングルの中で廃墟になっているところなどは、割れていないレンガのほとんどが持っていかれている。これらの時代物のレンガは竈(かまど)を作るのに最適なのだそうだ。そりゃ、そうだろう。ちなみに、たいていのヤップの家では、いまだに母屋の外に竈場を作っている。竈で薪を使って炊いたご飯が最高においしいように、大鍋を竈にかけてヤシ殻の直火で炊いたイモのほうが、灯油やガス・電気で炊くよりも、数段おいしいのだ。

a0043520_2325476.jpgこれはレンガのクローズアップ。まさか州政庁の土台を持っていくわけにはいかないから、ここはむき出しになっていてもしっかり残っている。日本だったら重要文化財に指定されてもおかしくないほどのものでも、こうして成り行きのままに放っておかれているのが、ミクロネシア的だ。

日本時代には「南洋庁ヤップ支庁」がここに置かれていた。南洋庁というのは、日本がミクロネシアを占領した後、民政を敷くにあたって創設した行政府で、本庁はパラオに置かれ、各島の首島に支庁が置かれていた。戦後アメリカの時代になって、しばらく病院として使われていたそうだが、80年代に新しい病院施設ができて以来、ヤップ州政庁ビルとなった。箱物はアメリカ製のプレハブだと思うが、もうかなりボロボロで、いまどきのおしゃれな日本の県庁や都庁を見慣れた方々には絶句されるような状況だけど、州政府職員はみんなちゃんと働いてくれている。数年前オフィスのOA化にともない、それまで大部屋だったのが部署ごとに仕切られエアコンが入ったのは、画期的な進化だった。



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by suyap | 2006-02-14 23:41 | ヤップの近代史