遺骨の収集・調査事業は、現地から遺骨発見の連絡を受けて予算が組まれてはじめて実施される。今回は前回(2004年)に受領しきれず現地で保管されていた遺骨と、その後に見つかった遺骨の受領・調査が目的だった。
スリアップ島(写真左)からも新たな遺骨が発見されたということで、現場の確認のために渡った。手元の資料によると、この島には陸軍では独立歩兵第331大隊554人と、独立混成第50旅団工兵隊(194人)の一部が駐屯していた。
現地とのやりとりの行き違いで過去に調査が終わったところを案内されてまわることになり、元兵営地のひとつだった場所に建つ
スリアップのカソリック教会の前に出た。この場所からもかなりの遺骨が早い時期に収拾されていたが、その後この教会を建立することになって作業を開始したら、またたくさんの遺骨が発見された。それらはていねいに集められ、島の流儀によって女たちが織った布に包まれて、教会の傍に埋葬された。そこには案内役の老人の父親や家族も埋葬されており、墓には十字架が立っていた。畑を耕したり家を建てたりするたびに見つかる無数の遺骨を、いつ引き取りに来るかわからない日本人のために保管しておくことは、こちらの人にとっては、なかなか受け入れにくいことなのだ(同様の件、
こちらや
こちらでも触れてます)。
お墓をあばくわけにもいかないので、家族と一緒に供養してもらっている礼を言って帰路についたとき、案内の老人が急に立ち止まり手持ちのバスケットの中から何やら取り出して、「これ持っていく?」と聞いた。彼の手の平には、おそらく兵士の遺骨の一部だったであろう金歯が乗っていた。
※元戦友の方によると、このような兵営地にそのまま眠る兵士たちは、遅い時期の死者なのだそうだ。早い時期に死んだ兵士は、まだ体力のあった他の兵士によって、離れた「埋葬地」に運ばれた。それでいよいよ動ける者がいなくなってくると、兵たちは持てる体力の限りを尽くして、自分が寝ている側に穴を掘った。そして、もうこれまでだ-と死期を悟ったとき、ゴロンと転がって自ら掘った浅い墓穴に転げ込んだのだという。
ところで
スリアップ島で見つかったと言われていた遺骨は、近隣の小島
タラマート(写真右手前)からのものだということがわかった。この島も、
前記の
ヤガルガライル同様、バラスに木が生い茂っているような小さな島で、まだ早い時期に
スリアップで亡くなった兵士たちは、ここにも運ばれ埋葬されていた。
タラマートも現在は無人島で、ココヤシやアダン(タコノキ)がうっそうと茂るばかり。発見された遺骨はすでに収集されて
フララップ島に送られていたが、このあたりだという場所には大きなヤシの木が倒れ波に洗われたあとがあった。見つかったきっかけは、焚き木などに使うため、大きな台風のあとに倒れた木を拾いに上陸したときだったという。まわりを捜しても新たな遺骨は見つからなかったが、また大きな波がきてヤシの木が倒れると見つかる可能性は高い。
今回は
タガイラップ島からの報告は受けていなかったが、ここには慰霊碑が建っているのでお参りに寄った。島の小学校の裏にあり、われわれが到着すると子供たちや先生も出てきてくれた。慰霊碑はサンゴのがれきと花で現地のお墓のようにきれいに飾られていた。
また、3年前の遺骨受領から後に見つかった遺骨を、ちゃんと保管していてくれたファミリーがあった。畑をつくっているときに見つけたのだそうだ。
右の写真はウォレアイ環礁の東南端に位置する
ラウル島だ。ここでは独立歩兵332大隊本部、同第1・第2中隊、機関銃中隊、砲兵中隊、それに独立混成第50旅団砲兵隊第1中隊野砲1コ小隊、あわせて550人ほどの陸軍の将兵と海軍(数不明)が配備されていた。陸軍の生還者はたったの60人だったという。
ラウル島の南端は、旅団本部のあった
フララップ島へいたる環礁の水路の入り口にあたり、監視と防御の要であった。左右の写真は今でも残る野砲壕の入り口と、そこから中を望んだ様子。壕の中は野砲1門と数人ほどが腰を折らずに立てる空間がある。
海岸から壕へいたるジャングルは、わたしたちの到着前に切り開いて道がつくられており、野砲(写真左)にはココヤシの若葉で編んだ飾り(現地では清めの意味もある)が施され、観音像が置かれていた。この観音像は、慰霊が終わると傍らに設えてある木箱に収納される。写真右は壕の裏手というか、野砲の先が水路入り口を狙って向いていた窓を外側から撮ったもの。
戦争が終わっても、
ラウル島に戻る住人はいなかった。数年に1回程度の慰霊のたびに、現在は
フララップ島に住むこの島の元住民たちが、このような受け入れ準備をしてくれている。
ラウル島(右写真の右側)と
パリアウ島(同左側)の間は、浅瀬だが水で仕切られている。
パリアウには、独立歩兵第332大隊第3中隊(島の南西部)、独立混成第50旅団砲兵隊第1中隊野砲1コ小隊(東部)、同高射砲隊2コ小隊(北西部)、陸軍地区隊(南西部)のほか、海軍の高角砲隊が島の北東部から外海側の守備についていた。
写真は4門あった陸軍の88式野戦高射砲のうち、今に残るひとつ。142人いた高射砲隊の将兵で生還した者は、たったの30人だった。
パリアウ島は戦後、人が住んでいた時期もあるが、今は無人島となっている。しかし
ラウルと同じく、この島の元住人家族によって、わたしたちの訪れる前に高射砲のまわりはきれいに草を刈られ、砲の先端には若いココヤシの葉が結ばれて清められていた。
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太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)
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ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその壱
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