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ミクロネシアの小さな島・ヤップより

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太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_9563217.jpgウォレアイ(オレアイ)環礁は、ヤップ島の東南東約600キロ、東京からほぼ南に2800キロに位置するヤップ州の離島のひとつだ。張り出したリーフも入れると東西約12キロ、南北約9キロになる大きな環礁で、そこに20の有人・無人島がある。しかし陸地総面積は2.5平方キロにも満たず、どの島もサンゴの瓦礫と砂でできていて海抜は2~3m、いまでも大きな台風が来るたびに島中が水浸しになる。

こんな場所に、1944年4月から5月にかけて日本の陸・海軍の将兵が6426人も上陸した。そのうち1945年9月の引き揚げ船で生還したのは、たったの1626人(25%)であった。4800人の死亡者のうち、戦死者は307人、93%にもなる残りの4493人は、飢えからくる衰弱や伝染病で死んだ。(写真は上から反時計回りにラウル、パリアウ、フララップ、マリヨン、タガイラップの各島)

(追記)朝鮮半島からの徴用者、日本人軍属(民間人)、ならびに戦災などで軍籍不詳となった人々などを入れると、ウォレアイ(オッタガイ)環礁での戦病死(主に餓死)者は約5200人という説が一般的であるが、5500人をくだらないだろうとの説もある。


太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_9581634.jpgこの環礁に送られたのは広島県の福山41連隊を主力とする陸軍の部隊と、海軍の設営隊、警備隊などで、これらはメレヨン守備隊となった。軍が上陸して以来今まで、日本人関係者の間でここは「メレヨン」(メレオンと表記した文献もある)という名で呼ばれていて、それが現在のミクロネシア連邦ヤップ州ウォレアイ環礁であることを知らない人は多い。しかし、この環礁や近隣の島々に昔から住む人たちにとって、ここが「メレヨン」であったことはない。日本時代に測量して作成された水路部発行1938年版海図にはメレヨン島(WOLEAI or ANANGAI IS)となっているという。敵に正確な島の位置を知られるのを防ぐために、環礁の小さな島のひとつマレヨン(Mariaon)の名を環礁全体の呼称として使い始めたという説もある。ウォレアイ環礁が日本時代のある時点でメレヨンと呼ばれ始めた理由はいまだに謎だ。(写真は左からフレレス、タラマト、フレマロック、スリアップ、ウォッタガイの各島)

※ウォレアイ環礁、ウォッガタイ島の表記は、現在のアルファベット表記ではそれぞれWoleai, Wottagaiと書くが、現地の発音ではWoはウォとオの中間くらいになる。従って、カタカナ表記としては、日本統治時代に使われたオレアイ、オッタガイでも間違いではないが、以後このブログでは、ウォレアイ、ウォッタガイと表記していくことにする。
 



太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_10173794.jpg
現在ヤップ島からウォレアイ環礁に行くには、月1回のペースで不定期に就航する州の連絡船を使うか、9人乗りのビーチクラフト機をチャーターするか、あるいは往復とも6人以上の予約がある場合のみ隔週水曜日に飛ぶ定期便に乗れるチャンスを待つかの選択肢しかない。ただし少しでも雨が続くと、ウォレアイの滑走路は冠水で着陸不能となり欠航する。たまに連邦政府の連絡船が寄航することもあるけど、このチャンスは上記以上に稀だ。ヤップからの所用時間は、船で2日~3日(途中の寄航コースによる)、飛行機で2時間半~3時間(風向きによる)、もちろん島にはツーリスト用の宿泊施設など無く、訪れる前に入島許可証、島での身元引き受け責任者の手配など、細々した手続きをヤップ島で済ませる必要がある。決して物見遊山で観光する場所ではないことをここに断っておく。(上に掲載した地図の青い部分に濃淡があるのは、わたしの画像作成能力不足によるもので、特別な意味はない)

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_9545590.jpgウォレアイ環礁の人口は2000年の国勢調査では975人、過去最高の記録となった。この増加は東部ヤップ州に点在する離島出身の子弟がフララップ島に寄宿して高校に通っているせいもあるだろう。1935年に日本が行った調査では522人、それが戦後の1958年にアメリカが行った調査では487人になっているので、日本軍上陸当時の1944年頃の島民の人口は500人前後と推察される。日本軍の上陸とともに、島の住民は全員、環礁南端のフラリス島に強制疎開させられた。

ウォレアイ環礁はサイパン、グアムを南につなぐ位置にあるので、どんどん西へと進展してくる連合軍(米軍)を、フィリピン、台湾へいたる手前で防衛するのに重要であるとされた。しかし、1944年6月15日6万6千人の兵力をつぎ込んでサイパン島に侵攻したした米軍は、7月7日これの占領に成功した。3万の日本軍将兵と1万の民間人の命が、この3週間の戦いで失われた。米軍の上陸によってどんどん島の北に追い詰められた日本の民間人が、次々に身を投げた断崖絶壁は、現在バンザイ・クリフと呼ばれて観光地となっているが、当時の出来事をほんとうに知り、語り継ごうとしている人が、今の日本にどれくらいいるのだろうか。

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_9584751.jpg上陸直後からしばらくはウォレアイ環礁にも激しい空襲が続いた。その空襲の合間を縫って、滑走路の設営や塹壕づくりなど守備態勢の構築に励んだ。写真はウォレアイ環礁の中心島であるフララップ島、その真ん中を走る直線はこのとき造られいまだに使われている滑走路だ。しかし上陸時に携行した食糧のほとんどは空爆で失われ、サイパン陥落後は補給の可能性も絶たれたため、7000人近い陸・海軍の将兵と軍属は、以後飢えと伝染病の中に孤立することになった。

小森宮正悳「副官 田中歳春中尉の思い出」
 約一年前の十九年四月、部隊がこの島に上陸したとき、海岸には、向う三年間分の食糧を主とする物資が、山のように積み上げられていたそうだが、それらが安全な貯蔵場所に分散・収納される前に、二百機を越える敵機が来襲(筆者注:44年4月18日)、その集中爆撃で、ヤシのように、食用になる植物類は勿論のこと、糧秣はほぼ全部焼失し、歯磨き粉などのように、およそ「喰えないものばかり」が焼け残つたという皮肉な話であった。それから島では、食糧のない、飢餓地獄が続くようになったわけである。焼け残った米の一人1日当りの配分量は、せいぜいおチョコ一杯の二十グラムぐらいという侘しさ。陸軍も海軍も兵士たちは栄養失調で、ばたばた倒れて行くようになったというのである。

やがて戦線は西方のペリリュー島やヤップ島、次いでフィリピン方面に移り、米軍機は偵察をかねて3日に1回2~3機で来ておざなりな空爆をするだけとなった。しかし、その頃には食料の枯渇が深刻な問題となっていった。各隊に農耕班が編成され、痩せたサンゴの砂地しかない土地にサツマイモ、カボチャ、トウモロコシなどを植えた。1944年11月頃から、栄養失調による衰弱死、アメーバ赤痢、デング熱などで死亡する兵士の数は、月に数百人にもなっていった。

〇ウォレアイで亡くなったある兵士が残した句
芋畑に 虫取る兵の 痩せ果てて

ものものし かぼちゃ畑の 鉄条網

星月夜 芋畑広し 不寝番

芋芋と 呼びつつ兵の 死にいけり

さすがに参謀本部も全く補給を絶ったわけでは無いらしく、泉 五郎「田中歳春君とメレヨン島」によると、海軍・伊号潜水艦で5回ほど補給を試みている。サイパン陥落後この海域は完全に連合軍側が掌握するところとなり、1944年8月15日に立ち寄った病院船氷川丸を最後に、海面を航行する船での補給は全く不可能、潜水艦ですら夜間に到着し、暗闇の中で物資の陸揚げをして夜明け前には再び出航(潜降)するという有様だった。

1944年10月28日 伊号363潜水艦到着
1945年 1月26日 伊号371潜水艦到着、その後帰路不明
1945年 1月某日  伊号362潜水艦、往路不明で到着せず
1945年 2月16日 伊号366潜水艦、到着
1945年 5月 7日 伊号369潜水艦、到着

しかし数ヶ月に1度の補給で供給できる食料は、1回に80トン程度。米で単純計算しても、人数の多いとき(まだたくさん生存者がいたとき)では100グラム/日、人数が減っても250グラム/日程度だ。本来なら血気盛んな20代から30代の男たちに、ご飯にしてお茶碗1杯か2杯が配給できる1日の全食料だったのだ。

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_9594790.jpg写真に見えるのは、手前からラウル島とパリアウ島だ。環礁の入り口に位置するラウル島には陸軍歩兵332大隊約550人が配置されていたが、生還したのはたった60人ばかりだった。ラウル島は今でも「お化け島」と呼ばれ、戦後この島の住民は全員フララップ島に移住した。今では道すらジャングルに埋もれ廃墟の島となっている。

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_1002497.jpgこの写真はパリアウ島に残っている高射砲だ。この島の北西部には陸軍の高射砲隊が配備され、内海に向けて4門の高射砲を設置していた。140名いたこの隊で生き残ったのはたった30名だった。そのほか島の北東部外海の守備に海軍・高角砲隊、中東部に陸軍・砲兵隊・野砲隊、南東部に陸軍・地区隊、南西部に陸軍・歩兵中隊がおり、それぞれ膨大な数の兵士が亡くなっている。この島の住民も現在はフララップ島に移住しており、ときどき畑作業にやってくる程度、わずかな畑地以外は厚いジャングルに覆われている。

北海道新聞より
 この島に一九四四年(昭和十九年)春、約六千五百人の日本軍が上陸した。日本軍が建設した一本の滑走路が唯一の軍事施設。戦略上の重要度は低く、B29による本土爆撃が可能となるサイパンなどから米軍の目をそらす“おとり”の意味合いが強かったようだ。

 しかし、メレヨン島への米軍の攻撃は日本軍が陸揚げした食糧や弾薬の空爆が主。南方戦線が緊迫を深め、物資の補給はなく、守備隊には「自活」の指令が出た。

 一人五十グラムのコメが、一日の支給食糧のすべて。それもすぐに底をついた。農耕班がサツマイモやカボチャを育てたが、さんご礁の小さな島では大勢の兵を養うだけの実りは望めない。畑ではたびたび盗難が発生する。犯人は数日で分かる。便が違うからだ。犯人には絶食の罰が下る。

 「島の守り神」といわれていた一メートル級の大トカゲは、すぐにいなくなった。人さし指ほどのカナヘビは、焼くと縮むので生で食べた。熟れて落ちたヤシの実に付くウジ虫は甘味があり、奪い合うようにして食べた。

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_9591736.jpg〇藤原彰著『餓死した英霊たち』
「戦死者」の六割以上が餓死だった
 どれだけ下級兵士の人権が無視されていたかの一つの例となるのは、中部太平洋のメレヨン島の例である。ここでは補給も途絶し、米軍からも無視される中で敗戦にいたるまで飢餓との闘いが続いたのであるが、同島守備隊は最後まで「軍紀厳正」だったということで、昭和天皇裕仁からとくに賞賛の言葉が与えられたのである。
 しかし「軍紀厳正」の実態は、飢えのために食糧を盗み出そうと試みた兵士に対する裁判によらない処刑の乱発で保たれていたものだった。食糧の配給も将校と兵士の間では大きな差が付けられていた。その結果、同島からの陸軍の生還者は准士官以上の階級では七割であるのに対し、兵士は二割に満たなかったのである。すなわち餓死の運命は平等に軍人を襲ったわけではなく、明確な階級差がついていた。下級であればあるほど、餓死の比率も多くなったのだ。
(後記)この藤原彰氏については、「北支、後に本土の歩兵部隊におられた藤原氏がメレヨンの緒隊を批判されるのは如何なものか。メレヨンの将兵を批判できるのは、メレヨン(または食糧に困窮していた地域の部隊)の在隊者のみと思います」というご意見がご遺族のひとりから寄せられた。

〇ある中隊長の日記より
畑にて銃声一発。
畑監視の兵、玉蜀黍畑を巡察中、泥棒来たれりと射撃せりと。
頸部を貫通し現場に相当の出血あり。
監視の任完遂せるを以て中隊に告知し、南瓜一個を授与す。

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_101355.jpg将校と兵士の待遇の違い、リンチの横行、さらに結果的に将校と一般兵士の生還率に明らかな差(将校の死亡率は33%、兵は82%)があったことが、復員すぐから指摘された。1945年10月25日付中国新聞の記事を始めとして、翌1946年2月号の雑誌「世界」で時の文部大臣阿部能成が上級幹部を告発するメレヨン島遺族からの投書をとりあげたことで、ウォレアイから生還した将校はマスコミに煽られた世論の激しい非難を浴びた。同誌の同年6月号は将校からの反論も掲載したという。(上に掲載した2枚の写真は、2000年に行われた第12次メレヨン訪島・厚生省戦没者遺骨収集派遣団の記録ビデオより)

〇ニュースは踊る「昭和天皇とメレヨン島
海軍司令官宮田嘉信大佐が書いた文章が残っている。昭和20年6月の文章である。

概略はこうである。

各隊とも食料状態、衛生状態が極めて悪い。一日平均20名近くが死ぬ。全部栄養失調からくる餓死である。

兵による備蓄食料の盗難が多い。これに対しては番兵が射殺をして防いでいる。私刑(リンチ)が極めておおい。日本軍人が日本軍人を絶食させたり、つるし首にしたり、絞め殺したりといったリンチが平然と行われている。憂うべき状態である。

メレヨン島では75パーセントの兵が餓死した。飢えた者同士のリンチによる死もあった。たった一つの小さな島で、5000人が「餓死」したのである。戦闘は全くない。米軍は島を素通りしている。これが「作戦ミス」などという軽い言葉で表現できることであろうか。「戦争指導責任者」の罪は、未来永劫にわたって消えはしない。

関係文章「追悼メレヨン海軍戦記」メレヨン海軍会1978年 

      「単独上奏の思出」 下村定  偕行 1966年3月号

ここに紹介されている海軍警備隊司令宮田嘉信大佐は、1946年7月18日、渦巻く非難の中で、割腹自殺された。宮田司令については、先に引用した小森宮正悳「副官 田中歳春中尉の思い出」に次のような記述が見える。
 この環礁では小さな島や珊瑚礁が十数ヶ所も散らばっていたが、その内の七ヶ所に海軍の各分隊が散らばって配置されていた。各隊からは毎日、このテント張りの本部指揮所に報告が届くが、その主なものは、死亡者の報告である。「○分隊○○名、衝心脚気で死亡」というような報告が、日によっては二十人くらいもあった。皆、栄養失調つまり餓死者である。司令、副官、居合わせた士官が起立してその報告を聞く。その時の、司令と副官の悲痛な顔の表情が、今でも眼底に焼き付いて残っている。報告が終ると、煙草好きの司令は、煙草に火をつけて深く吸い込む。食糧の補給さえない島で、煙草の配給などあるはずがない。司令といえども煙草は大変な貴重品で、カビで茶褐色に変色した巻煙草を、大切そうに私物入れから取り出して吸っておられた。数服――三分の二ぐらい吸って、灰皿で火をもみ消し、吸殻をテントの外の、衛兵の立っている方向にポイと投げる。その時、決って、田中副官は、クルリとその方向に背を向ける。テントの外では、衛兵が素早く、そのすい殻を拾ってポケットに入れる。始めのうち、うかつな私はこの一連の仕草が何のことかわからなかった。数日後、鈍感な私もハッと気がついた。ニコチンに飢えた兵隊にすい殻を拾いやすくするための田中副官の「思いやり」であることがわかったからだ。

その後、独立混成第50旅団長の北村勝三少将も、復員後全国の遺族をまわって弔意と報告を終えた後、1947年8月15日(敗戦から2年後)、割腹自殺を遂げられた。


太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_101210.jpgこの極限状態で起きた出来事について、わたしは何も言葉を持たない。ただ、「生き残った私達が悪かったのか」という答の無い問いを問い続け、亡くなった戦友や部下を島に置き去りにしたという無念の思いを引きずったままその後の一生を過ごしてこられた生還者の方々がおられるのを知っている。戦後20年間禁止されていたミクロネシア地域への日本人の立ち入りが許可された直後、1966年4月に21年の歳月を経て初めて墓参と遺骨収集が実現した。その後、民間または政府派遣の遺骨収集は何度も繰り返されているが、いまだにウォレアイには数多くの遺骨が眠る。畑を耕しても、海岸を歩いても、海に潜っても、遺骨の一部が発見されることがある。
(写真は1982年に全国メレヨン会によって建立された慰霊塔。2002年3月の台風で一部破損したが修復された)

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_1021375.jpgまた、ウォレアイ(メレヨン)の悲惨な経験は、日本人の生還者と遺族の間でのみ語られる場合がほとんどだが、こういう事実があることも、わたしたちは忘れてはいけない。

http://www.gun-gun.jp/sub/ikotuhenkan.htm
 父親の趙仁煥は京城(ソウル)で海軍工員として強制連行され、1945年4月19日に南洋群島のメレヨンで戦士し、その遺骨は1948年5月31日に送還されたという事実を日本の厚生省から確認した。

原告 パク・メジャ(朴梅子)さん

 現在まで、父の死亡申告さえ出していません。父の正確な記録を探すために、日本の厚生省に問い合わせをしたところ、父は海軍の軍属で、第4海軍施設部に 服務して、1944年4月1日にメレヨン島で戦死したといいます。死没給与金6888円は供託されていて、遺骨は1948年2月3日に送還したといいます が、その事について連絡を受けた事は全くありません。遺骨がどこに捨てられたか分からない状況です。父親の死亡申告を提出するために、厚生省から発行され た戦死記録と、日本から引き渡された「被徴用死亡者連名簿」を法院に提出しましたが、通過されませんでした。法院は政府から認定された官印が必要だといい ます。そのような書類を持ってくることを要請されて、「被徴用死亡者連名簿」で死亡を証明できる事と公式資料に認定できることを外交通商部に確認を受けて 再度提出しましたが、受けられませんでした。一体、何をどうしたら父親の死亡を証明できるのか非常に苦しむのみです。

日本人兵士の遺骨ですら1966年まで収集できず、しかも墓標もなく身元確認すらできないほど風化している状況で、なぜ「その遺骨は1948年5月31日に送還されたという事実を日本の厚生省から確認」できたのであろうか?守備隊が到着する前の4月1日には大きな空爆があったと聞くが、そのときの戦死者の遺体は無事に送還されたのであろうか?もし厚生省(現・厚生労働省援護局)がいい加減な回答をしたのであれば、これは重大問題だ。ウォレアイでの戦病死者総数4800人の中には、朝鮮からの労働者(軍属扱い)は数えられてないと思う。

太平洋戦争は避けることができた@ウォレアイ(メレヨン)_a0043520_1025297.jpgいまだに島に眠る多くの遺骨の上に、ヤシの木が生え、サンゴが育ち、カニが住まう。日に何十人も息を引き取っていく状況で、まだ生きている兵士にも深い墓穴を掘る体力は残っていなかった。せいぜい砂地に浅い穴を掘って遺体を埋め、砂で覆うのが精一杯の弔いだった。海抜数メートルしかない島では大きな嵐の度に土地は波で洗われ砂は流される。それで海に流された遺骨も多い。
(追記:関連記事)
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその壱
http://suyap.exblog.jp/6032304/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその弐
http://suyap.exblog.jp/6036178/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその参
http://suyap.exblog.jp/6046799/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその四
http://suyap.exblog.jp/6048533/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーこれから(その五)
http://suyap.exblog.jp/6051136/

ウォレアイを知る日本人のひとりとして、ここで61年前に起きたことを深く記憶に留めて多くの人に伝えることは、無念な最期を遂げざるを得なかった総ての死者への責任であるとわたしは思う。そして、何も知らずに亡くなった方々にはほんとうに申し訳ないことだが、次の事実も確認しつつ強調しておきたい。この人々の死を無駄にしないためにも。

★この作戦(ウォレアイへの守備隊派遣)は明らかにオトリ作戦であったこと。

★戦争の早期終結をしていれば避けられた死であったし、日本軍部にはそういう動きもあったこと。
-サイパン島陥落寸前の1944年7月1日付参謀本部機密戦争日誌の一節-
「今後帝国は作戦的に態勢展開の目途無きを以て、速やかに戦争終末を企図す。」

★しかし日本を太平洋戦争に導いた連合軍側の陰の勢力は、原爆の完成を待って人体実験を行い、次の戦争=金儲け=ソ連参戦=冷戦構造の種を仕組むまで、戦争を終わらせる気は毛頭なかったということ。

命令で任務についた軍の将校だけをスケープ・ゴートにして世論を煽り、ほんとうに戦争を仕組んだ奴らと、それに追随して戦前・戦後を生き延びた奴らが、今もほくそえんで次の悪巧みをしているのではないか!

日本人が知らない恐るべき真実「操られたルーズベルト⑦」
(ドール):より端的には、真珠湾攻撃の前に駐日大使だったジョセフ・C・グルーは、五月半ばに「天皇の地位さえ保証されれば、日本は平和を受け入れるだろう」と、トルーマン大統領に訴えはじめています。ウィリアム・D・リーヒ提督も同様の考えをトルーマン大統領にすすめているのです。トルーマンは弁解をつけて返事をしました。最初に彼は「沖縄の陥落を待つ」と言い、六月半ばにはグルーに、「ポツダム会議が終わるまで待とう」と語りました。

ヒルダー:7月17日のポツダム会議の開始時における状況はどうでしたか。

ドール:それはトルーマン大統領が無辜の都市住民の上に最初に原爆を落とし、戦利品目的のためにソ連が参戦する三週間前のことでした。トルーマンは、私の岳父ルーズベルトと同様、CFRによって重大な影響を受けていたことを忘れてはならない。歴史家ゼンダーマンは次のように報告しています。

「ポツダムでトルーマンは、日本と平和を講ずることを主張していた人たちがいかに正しかったかを、直ちに理解したはずである。ここでアメリカの秘密情報機関は東京政府が天皇の代わりにモスクワにワシントンとの平和を仲介してくれるように依頼したことを確認していた。日本が降伏する用意があり、いかなる苛酷な条件でも受諾することに、一点の疑いもなかった。大統領の一言があれば、ポツダム会議の最初の会議が開かれる前にも、アジアの戦争を終わらせるのに十分であったはずだ。しかし大統領はこの言葉を発しなかった…」

そうしないで、彼は8月6日に世界最初の原子爆弾を広島に落とす命令を発したのです。ソ連の参戦の一日前、第二の爆弾を長崎に落とすことを命令した。スターリンは日本を背後から襲ったのです。この結果は、共産主義が北朝鮮を得、全朝鮮、そして日本をも共産主義者が手に入れることを防ぐために、アメリカはしたたか支払わされたのです。長年の間、我々の多くは、トルーマンが単純善良で臆病な性格であり、会議でソビエトの共産主義者たちに対抗して、自己の意見を通せなかったと考えてきました。しかし不幸にもますます多くの証拠が、彼がルーズベルト大統領と同じように、意識的にソ連を作り上げようと欲していたことを証明するのです。

日本軍上陸後フラリス島に強制疎開させられていた島民に、ほとんど被害が及ばなかったのは不幸中の幸いであった。日本軍兵士が極度の飢えと病に苦しんだのに比べ、先祖代々この地で暮す人々は、海に潜って魚を取ったり昔から土地にあった作物を育てたりして、欠乏気味ながらも無事に生き延びることができたのだった。


(関連記事)
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたこと-その壱
http://suyap.exblog.jp/6032304/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその弐
http://suyap.exblog.jp/6036178/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその参
http://suyap.exblog.jp/6046799/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーその四
http://suyap.exblog.jp/6048533/
ウォレアイ環礁(メレヨン)で62年前に起きたことーこれから(その五)
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by suyap | 2006-08-15 23:58 | ヤップと戦争
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